第九十四話今、自分がここにいるということ
彼には、横浜という街が似合っていました。
横浜が舞台の連続ドラマ『俺たちの勲章』。
黒い皮ジャン、黒い皮パンに身を包み、サングラスをかけて埠頭を歩く姿は、今も鮮烈に印象に残っています。
セリフがなくとも、そこに立っているだけで圧倒的な存在感を醸し出していました。
主演した映画、その名も『ヨコハマBJブルース』。
松田優作扮するBJは、横浜の場末のバーで歌うブルースシンガー、そして私立探偵でした。
黒のロングコートにグレーのマフラーを巻いたファッションも、多くのファンに真似されました。
この映画の原案は、松田優作本人。
横浜に思い入れがあったのでしょうか。
彼が生まれ育った街もまた、港町でした。
山口県下関市。
しかし、18歳で街を出てから、松田優作は二度と下関に暮らすことはありませんでした。
彼にとって、あまりいい思い出がなかった街でしたが、一軒だけ、日活の映画館がありました。
時は、日活アクション映画の全盛期。
石原裕次郎、小林旭、宍戸錠。
幼い優作にとって、スクリーンの世界に我が身をゆだねる時間だけが、生き生きと輝くひとときだったのかもしれません。
彼が幼少期を過ごしたころは、下関にまだ遊郭がありました。
下関の港にやってくる漁船の漁師を相手に、街に娼婦が立っていました。
彼は幼心にいつも、こう思っていたと言います。
「ここは、俺のいる場所ではない」。
父親の顔を知らないということ、国籍が日本ではないということ、そうした環境も、彼を孤独に追い詰めていきました。
自分の居場所を探す旅は、終生、続いたのでしょう。
でも彼は、ただ探すだけではなく、自分の存在を強く光らせることに、文字通り、命を賭けました。
壮絶な人生を歩んだ俳優、松田優作が、格闘の末につかんだ明日へのyes!とは?
俳優、松田優作は、1949年9月21日、山口県下関市に生まれた。
父は、他に妻子があった。
優作の母が妊娠を告げると、姿を消した。
話によれば、身長180cmほどの背の高い男だったらしい。
母は、周囲の反対を押し切って、優作を生んだ。
優作には兄がいたが、その兄たちと父親が違うこと、そして自分の国籍が日本でないことを、彼は10歳になるまで知らなかった。
母は自宅を娼婦に貸して生計の足しにしていた。
そのせいで、優作は幼くして、大人の世界をいやおうなしに知る事になった。
ただ女性たちには可愛がられ、芝居小屋に連れていってもらったこともあった。
女性どうしの客の奪い合い、喧嘩、自殺騒ぎ。
そうして目に焼き付いた出来事全てが、彼の人格を築いていった。
学校では、孤独だった。いじめもあった。
でも、母は優作に学校を休ませなかった。
「学校にはちゃんと行きなさい。勉強をしっかりしなさい。ウチは貧乏だけど、必ずおまえを大学までやってみせる」。
大雪の日。
学校も休みになるのではないかと思ったが、母は自分の長靴をはかせて、優作を送り出した。
「こんな日に行けば、きっと先生、褒めてくれるよ」。
母の長靴は指先に穴が開いていた。足は冷え、しもやけができた。
母は言った。
「いつも、胸を張って堂々としていなさい」。
優作は、思った。
「強くなりたい。僕は誰より、強くなりたい」。
松田優作は、幼い時から思っていた。
「俺は、長生きできないかもな」。
小学1年生のとき、兄の自転車の後部座席に乗っていて、坂道で横転した。胸と腹を強打する。
でも医者は、顔や腕の擦り傷ばかりを治療。
結局、腎臓を損傷していることに気づかなかった。
翌日から血尿が出たが、薬を飲んで治ったのでそのまま放置。
やがて結核を機に、腎臓を片方失った。
中耳炎を患ったが、これも放っておいた。
やがて右耳が聴こえないほど悪化した。
痛みに耐える癖がついていた。
自分を律する心。
それこそが魂を強くする、自分の存在感を増してくれる。
そう思ったのかもしれない。
高校に入ると、空手を習った。
大好きだった映画や芝居の影響で、役者になりたいと思うようになる。
見る側ではなく、見せる側に行きたい。
その思いは日増しに強くなっていった。
東京に出たい。
彼は、下関を出る覚悟をする。
母は賛成した。
東京に出た松田優作は、劇団に入った。芝居の稽古にあけくれる。
そんな中、母から仕送りがきた。少ないながらも、欠かさず届く。
彼は、母からの手紙を決して友人に見せなかった。
そのわけが、ある日わかる。
同居していた友人が優作の母から手紙をもらったのだ。
全文、カタカナだった。
韓国籍の母は、うまく日本語が書けなかった。
そこには、こうカタカナで綴られていた。
「ドウカ、ユウサクノコト ヨロシクオネガイシマス」。
松田優作は文学座に入り、やがてチャンスをつかむ。
『太陽にほえろ!』の新米刑事、ジーパン。
長い手足、走る姿の美しさ。ときどき見せる哀しい横顔。
そして茶目っ気のある笑顔。ファンがついた。人気が出た。
でも、彼はその波にのまれることはなかった。
「違う、俺がやりたいことはまだまだ先にある」。
浮かれるどころか、ますますストイックになっていった。
31歳のときに主演した、映画『野獣死すべし』。
主人公の伊達邦彦になりきるために、彼はわずか1か月で10kg以上減量し、奥歯を4本抜いた。
伊達の想定の身長に合わせたくて、「できるなら、両足を5cm切断したい」とまで言い放った。
その鬼気迫る演技は、映画史に残る傑作をつくった。
松田優作は、自分にも厳しかったが、まわりにも妥協を許さなかった。
ある撮影現場での打ち合わせのとき、撮影監督があくびをした。
無理もない。徹夜続きだった。
でも、優作はこう言った。
「あくびするなら、俺はやらない。あんたがカメラをのぞいているから、信頼して俺は演技ができる。その信頼を裏切るようなことがあったら、俺は帰る」。
実際、優作は現場から出ていってしまった。
集中するということ。
自分を極限まで追い詰めて、最高のパフォーマンスをするということ。
仕事とは、本来そういうものだ。
だからこそ、ひとに感動を与えられる。
誰かの魂を揺さぶることができる。
そう、松田優作は、信じていた。
遺作になったハリウッド映画『ブラック・レイン』。
優作は行きつけの下北沢のバーのマスターにこう訊いた。
「俺、体がやばいんだけど、手術したほうがいいかな、それより映画に出たほうがいいかな」。
マスターは答えた。
「優作さん、あんた自分で結論出ちゃってるんじゃないの」。
優作は、ふわっと笑った。
彼に立ち止まるという選択はなかった。
常に自分を追い込み、妥協しない姿勢を保つ。
そのことのみによって、彼は彼であり続け、自分の存在を証明した。
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