第二百四十一話諦めない
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。
6つの交響曲やヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲など、数多くの名曲がありますが、特に彼の名声を確実なものにしたのがバレエ音楽です。
『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』。
この3曲は現代に至っても、全世界で大人気の演目になっています。
チャイコフスキーの経歴は、他の有名なクラシックの作曲家とは、大きく異なっています。
彼は10歳から法律学校で学び、19歳で法務省の役人になりました。
幼い頃から特別な音楽教育を受けずに役人になった彼は、どうしても作曲家への夢を諦めきれず、21歳で初めて音楽学校の門を叩いたのです。
英才教育を受けた、年下の同級生たち。
先生の話すことが、思うように理解できない焦りと苦しみに苛まれる日々が続きました。
さらに働きながらの二足のわらじ。
音楽だけに時間を使えたらと思いながら、眠気と闘ったのです。
作曲家としてデビューしても、正当な評価が得られず、苦悶の連続。
繊細で壊れやすい心を持つ彼は、手紙や日記を書くことで、なんとか自分を保ちました。
あまりにメランコリックだと、彼の作風を揶揄するひともいました。
どうにも曲調が暗いと、敬遠する風潮もありました。
それでも彼は、己の信じた音楽を追及し、決して挑戦の姿勢を変えませんでした。
チャイコフスキーは、知っていたのです。
音楽には、力がある。
ひとを癒し、ひとの苦しみを和らげる魔法がある。
だから一生を賭けるのにふさわしいものである、と。
53年の生涯を作曲に捧げたレジェンド、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
クラシック界のレジェンド、偉大な作曲家、チャイコフスキーは、1840年5月7日にロシア帝国 ヴィトキンスクで生まれた。
ヴィトキンスクは、ロシア中部の鉱山の街。
父は、製材所の所長で、地元の名士だった。
チャイコフスキーの母は、後妻。
父とは18歳、歳が離れていた。
母は、貴族女学校を卒業した才女でドイツ語にフランス語、ピアノができた。
チャイコフスキーは、母からの期待を一身に受ける。
母方から神経過敏な性格を受け継ぎ、ささいなことに心揺れる子どもだった。
雨が降っているのを見ては泣き、風が窓を叩くだけで怯えた。
4歳の時、父がモスクワ出張のお土産に、小型の手回しオルガンを買ってきた。
母を喜ばすためのオルケストリオン。
夢中になったのは、息子のほうだった。
初めて指を触れ、音が鳴り響いたときの感動は、生涯、彼の心に残った。
音が風のように部屋を舞い、やがて窓の外に消えていく。
天使が通ったあとのような余韻。
「これが、音楽よ」
母が言った。
「これが、奏でる、ということよ」
チャイコフスキーは、野山を歩き、自然の中にも音楽を探した。
川のせせらぎ、鳥のさえずり。
幼くして、世界が音楽であふれていることを知った。
チャイコフスキーの音楽についての才能は誰もが認めることだった。にもかかわらず、両親に、彼を音楽の道に進ませるという発想は微塵もなかった。
芸術は教養として身に着けるものであって、仕事にするものではないというのが、彼等の常識だったからだ。
チャイコフスキー自身、モスクワの法律学校に進むことが当然だと思っていた。
成績は優秀。
母の期待に応えたかった。
寄宿舎での暮らしは、孤独だった。
故郷に手紙を書くことで、なんとかしのぐ。
1年生の夏。
芸術鑑賞会で、グリンカのオペラ『皇帝に捧げし命』を見て、体中に電気が走るような感動を覚えた。
幼い頃の記憶がよみがえる。
母と聴いたモーツァルト、ロッシーニ、ドニゼッティ。
自分の生活に何が欠けているか、わかった。
「そうだ、音楽だ」。
暇さえあれば音楽室に通い、ピアノを弾くようになる。
一度聴いた曲は、すぐに即興で演奏できた。
校舎の中庭を歩いているとき、ふと、音符が降ってきた。
メロディが浮かぶ。
音符をひとつもこぼさぬように、音楽室に駆け込んだ。
夢中で鍵盤に音符を置く。
「作曲…僕は…自分で音楽を作っても…いいんだ」
14歳の時、最愛の母が流行していたコレラで亡くなった。
まだ42歳。
失意のどん底のときも、結局、ピアノの前に座った。
涙を流しながら、母が愛したモーツァルトを奏でた。
チャイコフスキーは、法律学校を出たあと、法務省に就職。
生真面目で内気な青年は、きっちり仕事をこなし、上司から評価された。
でも、退屈で仕方がない。
そのストレスを劇場通いで発散した。
オペラ、バレエ、シンフォニー、演目に関わらず、片っ端から見てまわる。
後にこの時間が、彼の作曲の栄養になるとは思わずに。
ある日、法律学校の同級生が、帝室ロシア音楽協会が生徒を募集していることを教えてくれた。
さっそく入学する。
役所と学校の二足のわらじ。
体はきつかったが、毎日が充実したものになった。
理論を教えるザレンバという教師は、チャイコフスキーの才能にいち早く、気がついた。
英才教育を受けてこなかったおかげで、ベートーヴェンの洗礼や当時の流行りの旋律とは無縁。
自由なオーケストレーションと社会人を経験したことで得た常識が、ほどよく混ざり合っていた。
それでも焦るチャイコフスキーを、ザレンバは叱咤激励した。
「諦めるな! 好きなもの、やりたいことを見つけたら、とにかく諦めないことだ。諦めなければ、いつか、きっと花開く」
音楽学校を卒業すると、当時、最もお金にならないと言われた「作曲家」を志望。
役所も辞め、自ら背水の陣を敷いた。
生涯、お金には恵まれなかったが、作曲を続けた。
初演が不評でも、新聞に悪口を書かれても、音楽を手放すことはなかった。
最後の作品になった交響曲第6番『悲愴』も、さんざんな反応だった。
前代未聞の消え入るように終わる第四楽章。
でも、彼は胸を張って言った。
「この曲は、我が人生で最高の一曲である」
【ON AIR LIST】
情景(バレエ組曲『白鳥の湖』より) / チャイコフスキー(作曲)、モスクワ放送交響楽団
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 / チャイコフスキー(作曲)、マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、シャルル・デュトワ(指揮)
君の喜びは我が喜び(歌劇『ドン・ジョヴァンニ』より) / モーツァルト(作曲)、オランダ管楽アンサンブル
交響曲第6番 ロ短調「悲愴」(第4楽章途中から) / チャイコフスキー(作曲)、モスクワ放送交響楽団、ウラジーミル・フェドセーエフ(指揮)
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