第三百二十話動じない心を持つ
ニール・アームストロング。
アポロ11号の船長だった彼は、月面に立ち、こんな名言を残しました。
「これは、ひとりの人間にとっては小さな一歩にすぎないが、人類にとっては偉大な一歩である」。
偉業は、世界およそ40か国に同時中継され、5億人以上のひとがリアルタイムで見守ったと言われています。
「いま、月に立ちました。砂のようです。炭を細かくしたような砂を、私はブーツで踏みしめています」。
生々しい実況の声が、来るべき宇宙時代への扉を開いたのです。
2年前には、ニール・アームストロング船長を、名優、ライアン・ゴズリングが演じた映画『ファースト・マン』も公開され、あらためて、52年前の歴史的瞬間がクローズアップされています。
映画『ファースト・マン』は、『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル監督とゴズリングのコンビが再びタッグを組んだ作品。
最愛の幼い娘を脳腫瘍で亡くす父としてのニールや、妻との見えない壁に悩む夫としてのニールが、少ないセリフで丹精に描かれました。
映画でも、いくつかのシーンで語られているとおり、月への道は、決して容易いものではありませんでした。
貧困や飢餓を訴えるひとたちからは、「いま、なぜ宇宙なのか、地球上でこんなにも困っているひとがいるのに、その予算を、目の前の私たちに使ってほしい」という抗議デモがあり、ベトナム戦争の兵士たちからは、「オレたちが日々、ジャングルで苦しんでいるのに、月に旅行とはおめでたい」と揶揄され、また、度重なるテスト飛行での事故やトラブルで、決して少なくない命が犠牲になりました。
そんな中、アポロ11号は飛び立ち、その船長に選ばれたのが、どんなときも冷静に対応する鉄の心を持つ男、ニールだったのです。
彼は、いかにして何物にも動じない心を獲得できたのか。
あるいは、動じないふりができたのか。
誰も踏み入れたことがない世界に一歩、靴跡を残したファースト・マン。
ニール・アームストロングが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
アポロ11号の船長、ニール・アームストロングは、1930年8月5日、アメリカ合衆国オハイオ州に生まれた。
出産予定日の2か月前。
母ヴィオラは、キッチンに立っているとき、激痛に襲われた。
倒れ込み、救急車で搬送。
駆け付けた家族に、医者は言った。
「残念ながら、赤ちゃんは助けられませんが、母体だけは、なんとか助けられるように手を尽くします」。
幸いなことに、赤ん坊も命をとりとめた。
アームストロング家の出自でもある、スコットランドの語形から「ニール」と名付けた。
「ニール」は、英語で言えば、空に浮かぶ雲のこと。
暗喩として、チャンピオンを意味していた。
母は、小さな美しい子を抱き、思った。
「この子は、神様の子だ」。
ニールは、大人しい子どもだった。
極度のひとみしり。
犬が吠えては泣き、家に知らないひとが訪ねてくると、クローゼットに隠れた。
母は、そんなニールに本を読み聞かせた。
彼は母の膝に座り、本を読んでもらう時間が大好きだった。
家には、本がたくさんあった。
ニールは、無類の読書好きになり、暇があると本ばかり読んでいた。
小説、歴史や科学の専門書、ジャンルにはこだわらない。
小学1年生の1年間で100冊を読み、小学5、6年生向けの本を読みこなしていた。
それを見た先生が、いきなり4年生に飛び級させても、成績は学年でトップだった。
自信をつけたニールは、少しずつ周囲に溶け込むようになったが、どこにいくにも、本を手放すことはなかった。
人類で初めて月面に降り立った男、ニール・アームストロングは、幼い頃からの読書体験で二つのことを学んだ。
ひとつは、誰にも等しく訪れる「死」があるということ。
古今東西の書物は、そこに先人がいた証であると同時に彼等が遺した遺言でもあった。
みな、たった一回の人生を生きているということは、出会う全てが初めての出来事ばかりだということ。
であるならば、何も恐れることはない。
初めてのことでうまくいくことなど奇跡に近いのだから。
読書体験で学んだ、もうひとつのことは、行動するより前に、沈思黙考することが肝要であるということ。
ニールの祖父も父も弟も、癇癪(かんしゃく)もちの激昂型。
すぐ行動し、すぐ怒り、すぐ感情的になってまわりに迷惑をかける。
そんな姿を見ながら、いつもニールは思った。
「ボクは、不器用でよかった。すぐに言葉が出てこないし、ひとが怖い分、行動に移るのが遅い。でも、そのおかげで考える癖がついた。考えて、自分が納得した結論を得られれば、たとえ失敗しても後悔はない」。
学ぶことにのめり込むという母親から受け継いだ性格が、彼に冷静な目を植え付けた。
ニール・アームストロングは、父が苦手だった。
あまり家にいない父は、弟ばかりを可愛がり、ニールには、ことのほか厳しかった。
「背筋を伸ばせ! ニール、本ばかり読んでいるから、そんな姿勢になるんだ!」
怒鳴られるたびに、ビクッと体が震える。
父に抱かれたことも、甘えた記憶も、彼にはなかった。
父の前では、言葉が出てこない。
「まったく、お前は何を考えているのかわからない!」
父にそう言われるたびに、距離を感じた。
熱心に神に祈る、父や弟。
でもニールは、神に祈るより、自分を見つめた。
「自分は、今、これをすべきか、しないべきか」
そんなニールが、唯一、神の偉大さを感じるものがあった。
宇宙。
なぜか、宇宙にだけは圧倒的に魅かれた。魅了された。
空を飛ぶこと、大地を俯瞰することは、彼の生理に合っていたが、さらに宇宙について考えているとき、至福の感情が沸き起こってきた。
そこには、今まで読んだどんな書物にも書かれていない世界が拡がっている。
それを、自分の目で見てみたい。
確かめてみたい。
その衝動は、自分でも驚くくらい、大きかった。
ニール・アームストロングの冷静さがなければ、月面着陸はかなわなかったのかもしれない。
と同時に、彼が踏み出そうとした一歩には、大いなる衝動が隠れていた。
動じない心に裏打ちされた、見果てぬ夢。
【ON AIR LIST】
Whitey On The Moon / Gil Scott-Heron
Fly Me To The Moon / Nat King Cole
It's Been A Change / Staple Singers
Aquarius ~Let The Sunshine In / The 5th Dimension
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