第三百九十四話「どのように」ではなく「なぜ」を大切にする
山川健次郎(やまかわ・けんじろう)。
今年は、戊辰戦争の最後とも言われる会津戦争の終結から115年にあたります。
戊辰戦争とは、薩摩・長州・土佐を中心とした新政府軍と、徳川率いる旧幕府軍との戦いの総称です。
日本が文明開化の明治政府へと向かう、節目の戦い。
その壮烈な最期の場所が、会津だったのです。
会津藩が組織した16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊、白虎隊は、当初、城下を警備するだけの役目でしたが、板垣退助が会津に攻め入るや、戦いの前線に駆り出されました。
1868年8月23日、命を受けて出撃した白虎隊士20名は、戦闘の末、たどり着いた飯盛山で、鶴ヶ城付近から上がる煙を見て、城が陥落したと思い込み、鶴ヶ城の方角を向き、自らの命を絶ったのです。
その悲劇は、のちに伝えられ、飯盛山には、亡くなった19名の墓や、白虎隊の記念館があります。
山川健次郎は、そのとき15歳。
白虎隊入隊が決まりますが、15歳組は、重い鉄砲を担ぐことができず、全員除隊。
白虎隊は、16歳以上に設定されたのです。
しかし、厳しい戦局で少年兵も動員することになり、健次郎も刀を持ち参戦しましたが、籠城虚しく、降伏。
そこから健次郎の苦難の道が始まるのです。
屈辱と悔しさの中、会津人としての誇りを失わず、新しい日本のために教育の大切さを説いた健次郎は、アメリカ留学を経て、物理学の教授となり、さらに九州帝国大学、京都帝国大学、そして、東京帝国大学の総長に就任。
後進の育成に生涯を捧げました。
健次郎が、学生たちに向けて説いた、こんな言葉があります。
「日本の学生は、ハウ、どのようにということには深く注意するが、ホワイ、なぜなのかという言葉を発さない」
激動の幕末から日本の夜明けを駆け抜けた賢人・山川健次郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
会津藩出身で帝大総長だった偉人・山川健次郎は、1854年、現在の福島県会津若松市に生まれた。
生家は、会津鶴ヶ城の北出丸に面した場所にあった。
中級武士の家系。
祖父は家老職で、父は郡奉行を務めた。
祖父は、新しもの好き。
西洋の銃を仕入れたり、天然痘の予防接種を家族に受けさせたりした。
西洋かぶれと揶揄されても気にしなかった。
一方で、孫には厳格。
父を早く亡くした健次郎は、祖父の教育のもとで育つ。
顔つきも自分に似ている健次郎を、祖父はことさら可愛がった。
虚弱体質だった孫を鍛える毎日。
それも、孫の将来を思えばこそだった。
忍び寄る薩長の影を感じ、近い将来、大きな戦になることを、祖父は見抜いていた。
さらに、口には決して出さなかったが、会津が滅びるかもしれぬと想像していた。
相手の戦力、世の中の流れを、冷静に見極めていた。
「学びなさい、健次郎。
学問は、決して裏切らない。
そして、いつでも勇敢に立ち向かえる、強い足腰を持ちなさい」
祖父の予感は当たり、会津は、悲劇への道を進むことになる。
会津藩に残された道は、玉砕か降伏かの二つだった。
結局、降伏したが、その勇猛果敢な戦いぶりは、一部の新政府軍に讃えられた。
新政府軍、板垣退助は、「降伏したのであれば、みな等しく、日本の臣民であり、これからは諸外国と対峙せねばならぬ」と説いた。
山川健次郎は、厳罰を免れ、猪苗代での謹慎処分。
母や姉と別れ、兄と猪苗代に向かう。
道中、さまざまな罵詈雑言を浴び、石を投げつけられた。
悔しかった。涙がこぼれる。
剛健な兄は、「泣くな! 泣いたらもっとみじめだ!」と弟の背中を叩いた。
健次郎は、二人の気骨ある人物に出会うことで、一筋の灯りを見つけることになる。
ひとりは、松平容保(まつだいら・かたもり)の側近、会津藩士の秋月悌次郎(あきづき・ていじろう)。
そしてもうひとりは、長州藩士、奥平謙輔(おくだいら・けんすけ)。
秋月は、優秀な青年、健次郎を書生にしてくれないかと、友人だった奥平に頼み込んだ。
奥平は、それを受け入れた。
「いいでしょう、お預かりしましょう。
人間には、みな、持って生まれた天命がある。
それが全うできるよう、支えましょう」
こうして、健次郎の新しい船出が始まった。
山川健次郎は、17歳の時、アメリカへの国費留学生に選ばれる。
イェール大学に入るため、猛勉強。
「学問を大切にしなさい」という祖父の言葉がよみがえる。
アメリカに来て驚いたのは、日本における藩の争いが、いかにささいなことであるかだった。
長州だ、会津だと言っても、アメリカ人からすれば、同じ日本人でしかない。
奥平が、長州藩士でありながら、なぜ、自分を守ってくれたかがようやく理解できた。
さらに、自然科学を学び、学問において「なぜ」と考えることの大切さを知る。
「どのように」生きるか、効率ばかりを考える前に、まず、「なぜ」それが大事かを見極めるチカラ。
「なぜ」が文明を一歩前に推し進めることに気づく。
しかし、健次郎の会津魂が消えることはなかった。
そして、若くして命を絶った白虎隊の仲間のことを忘れることもなかった。
山川健次郎は、若い人の未来を守り、自分がそうしてもらったように、若者のさまざまな生き方を応援した。
「戦争だけは、決してしてはならない」と言い残し、78歳でその生涯を閉じた。
【ON AIR LIST】
愛しき日々 / 堀内孝雄(ドラマ『白虎隊』主題歌)
KEEP ON LEARNING / THE SPECIALS
希望の道 / サンボマスター
★今回の撮影は、「會津藩校 日新館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
営業時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
會津藩校 日新館 HP
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