第二百二十六話自分は、2番
平松博利(ひらまつ・ひろとし)。
今から37年前の1982年、パリから帰国した彼は、東京・西麻布に小さなレストランを開業します。
「ひらまつ亭」。
席数は、わずか24席。でも、平松の圧倒的なフランス料理の腕と妻の温かいホスピタリティに、噂が噂を呼び、行列が絶えない伝説の店になりました。
以来、彼の躍進は続き、国内外にレストランを展開。
2002年には、パリに出店した店が日本人オーナーシェフとして初めて「ミシュラン」一つ星を獲得したのです。
フランスに基盤を持つことで得た人脈。
持ち前の人間力で出会いは拡がり、多くのフランス人シェフとの交流が始まります。
ポール・ボキューズ、マーク・エーベルラン、ジャックとローラン・プルセルとの業務提携が実現。
特に、昨年亡くなったフランス料理の巨匠、ポール・ボキューズは平松を「息子」のように可愛がり、パーティに列席すれば、必ず彼を隣に座らせました。
ボキューズは、自分の師匠であるフランス料理の神様、フェルナン・ポワンのこんな言葉を平松に話しました。
「若者よ、故郷へ帰れ! その街の市場に行き、その街のひとに料理を作れ」
そしてもうひとつ、こんな教えも平松は継承します。
「腕の良い料理人というものは自分が学び取ったもの、すなわち自分の個人的な経験で得たあらゆるものを、自分のあとに続く世代に伝える義務がある」
後進に伝える、後進を育てる、後進の夢を実現する。
そのために彼は、シェフ・平松であり、経営者・平松にもなり、大切なひとを守るという正義を貫く覚悟を持ったのです。
フランス料理のみならず、フランス文化を日本に根付かせた賢人・平松博利が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
日本におけるフランス料理の先駆者。
平松博利は、1952年6月23日、横浜に生まれた。
三男坊のガキ大将。
何かに没頭すると手がつけられない。
メンコが気に入れば、一日中やっている。
ビー玉が面白ければ寝食を忘れてのめり込んだ。
宿題はやったことがない。
勉強は学校でするもの。
ひとたび校門を出れば、全部、自分の時間だと思った。
当然、教師に叱られる。
母が呼び出される。
それでも自説を曲げなかった。
小学生のとき、いつも怒ってばかりの母のことを作文に書いた。
それが杉並区で一等賞を獲ってしまう。
一年間、母の悪口を書いた作文が、学校の廊下に貼りだされた。
「まったく、おまえって子は…」
母は我が子の行く末を案じた。
でも、父は違った。
平松に言った。
「おまえは、おまえでいい」
父は観光業を営んでいたが、戦争で海軍に入隊。
出撃前のアクシデントで人間魚雷に乗りそびれ、代わりに大切な部下が命を落とした。
父は心に墓を建て、息子たちには後悔のない人生を願った。
絵を画きたいと子どもたちが言えば、家じゅうの壁にベニヤ板をはりつけ、キャンバスにした。
専門家が使う本格的な道具を買い与え、こう言った。
「落書きはするな、画くならちゃんと画け」
そのときの父の声を、平松は覚えている。
厳かで、哀しい響きだった。
国内外に数多くのレストラン、ホテルを展開する、ひらまつの創業者、平松博利は、幼い頃から料理人になろうと思ったわけではない。
本腰を入れてフランス料理を学び、一生の仕事にしようと思ったのは、27歳のときだ。
学生時代は理数系が得意。数学が好きだった。
一方で、古今東西の名著を読み漁る。
文学から思想書まで。
ソクラテス、ブッダ、孔子。
人間とはなにか、ひとの一生とはなにかに興味を持った。
四書五経に触れ、仁義という言葉の奥深さを知る。
将来はなんとなく、プラント・エンジニアになって、カナダでダムでも作りたいと思っていた。
高校は進学校に進む。
大学にいくつもりだったが、学生運動が激化。
願書を出すのを忘れた。
担任に「おまえ、大学行かないでどうするんだ?」と詰め寄られ、反発。
思わず「フランス料理のシェフになります!」と言ってしまう。
サルトルやカミュを原書で読みたくて、アテネ・フランセでフランス語は勉強していた。
フランス料理に骨をうずめようなどという気はさらさらなく、フランスに渡る。
当時は、アルベール・カミュやアンドレ・ジイドが訪れたカフェに行けるだけでうれしかった。
でも、本格的なフランス料理を体感したとき、思った。
「このバターにチーズ、クリームに野菜やハーブ、そして肉。調味料や素材が違うだけで、こんなにも料理の味が変わるんだ! それらを日本に持ち込めば、あるいは日本で作ることができれば、日本でも本格的なフランス料理は味わえる」
フランスで、彼の心に火がついた。
かつてメンコやビー玉に瞳を輝かせた少年がそこにいた。
賢人・平松博利にとって、一度だけ、シェフをやめようかと思う失意の出来事があった。
1982年に創業した「ひらまつ亭」には、将来を期待した4人の料理人がいた。
そのひとり、アベは、魚の担当。
平松は彼の腕を頼りにしていた。
アベの夢はふるさと名古屋に戻り、自分の店を持つことだった。
そのアベが若くして、病に倒れる。
リンパ腫のレベル4。
そんな彼が、名古屋の病院を抜け出し、平松に会いにきた。
でも、平松はパリに行っていて不在。
ほどなく彼は亡くなった。
体を引き摺るようにして、どんな思いで会いにきてくれたか。
思えば思うほど、後悔に打ちのめされた。
初めて、部下を亡くした父の気持ちがわかった。
「オレより先に逝っちゃダメだよ、アベ!」
厨房で、ふと呼びかけてしまう。
「おいアベ…」
言葉は虚しく宙を舞い、やがて自分に戻ってくる。
名古屋の彼の実家を訪ねると、彼の母親は息子がいつか店を開くためにと、海外の有名なお酒を集めていた。
そのボトルを見たとき、平松は泣き崩れた。
もう、こんな思いをしたくない。
部下を守る。
部下が1番。自分は2番。
家族を守る、家族が1番。だから自分は2番。
1番になろうとするから、戦争が起こる。
思えば、仁義の仁の漢字は、ひとに2番と書く。
大切な誰かがいてくれて、自分がいる。
それでいい。
それがいい。
そのためには、命を賭けて守りぬく。
ふと、父の声が蘇る。
「落書きはするな、画くならちゃんと画け」
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イマジン / ジョン・レノン(作曲)、田ノ岡三郎(アコーディオン)
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