第六十八話無駄になる努力はない
彼は、熊本県球磨郡、現在の人吉市に生まれました。
熊本県立工業学校に入り、夏の全国中等学校大会に二度出場し、二度とも準優勝でした。
漫画『巨人の星』の原作者・梶原一騎は父方の祖父が熊本出身ということで、川上哲治には強い思い入れを抱き、物語の中で、相当なカリスマ性を持った存在として描いています。
現役時代は、赤バットを使用して有名になり、第一次巨人黄金時代の中心メンバーでした。
監督になってからの偉業はいまだ前人未到。
9年連続セ・リーグ優勝に導き、プロ野球界に大きな足跡を残しました。
川上が残したものは、記録ばかりではありません。
甲子園の土を最初に故郷に持ち帰る慣例を始めたのも、『弾丸ライナー』という打球を最初に打ったのも、投手でありながら、4番を打ついわば二刀流のはしりも、川上だったと言われています。
『重戦車』と言われるほど足が遅かったにもかかわらず、通算の盗塁は、220。バッテリーのくせを見抜く技術を高めました。
とにかく、努力のひと。それを裏付けるこんな言葉があります。
「疲れるまで練習するのは普通の人。倒れるまで練習しても並のプロ。疲れたとか、このままでは倒れるというレベルを超え、我を忘れて練習する、つまり三昧境、無我の境地に入った人が、本当のプロだ」。
野球の神様、川上哲治が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
元読売巨人軍監督・川上哲治は、1920年、熊本県球磨郡に生まれた。
もともとは、右利きだったと言われている。
5歳のとき、遊んでいて砂利道で転倒。右腕を痛めた。
治るのに時間がかかった。
気が付くと、左手が利き腕になっていたという。
最初は左投げ、右打ち。やがて、打つのも左になった。
幼い頃、父親の借金で家が破産。貧しかった。
まわりの援助で熊本県立工業学校に入学。
野球にのめりこんだ。
体格にめぐまれていたわけではない。
ピッチャーだったが、ことさら速い球を投げることができたわけでもない。
ただひたすらに、努力のひとだった。
彼はいつも思っていた。
「勝負に強いか弱いかは、執念の差である」。
そのあまりの管理体制に批判の声があがったこともあったが、とにかく勝ちにこだわった。
結果を出し、まわりは口をつぐむしかなかった。
14年間の監督在任中、彼は一貫して、こう語っていた。
「ときに部下や周囲の不興を買うことがあったとしても、大儀を表現するために成すべきことを成す。そういう強い信念を持った人間でなければ、リーダーは務まりません」。
野球の神様・川上哲治が認め、畏れたひとの中に、正力松太郎がいる。
政治家であり、実業家。読売新聞を朝日、毎日に次ぐ大新聞に育て上げ、テレビ放送を確立し、プロ野球を創設した、偉人だ。
その正力が巨人軍のオーナー。
川上は、正力とのやりとりの中で学び、信頼を勝ち取り、やがて自らの生き方を固めていった。
川上は監督就任1年目で優勝。しかし、2年目は4位に終わる。
マスコミや球界から、非難や中傷がとびかった。
それくらい、当時の巨人軍には、優勝してあたりまえくらいの、プレッシャーがあった。
あまりの批判に埒(らち)があかない。
正力が言った。
「勝負の世界は、勝つこともあれば負けることもある。巨人は川上に任せたのだから、一、二度負けた、Bクラスに落ちたからといって簡単に川上を代えたりしてはならん!監督を続けさせるんだ!」
あっという間に、非難は沈静化した。
川上は、翌年、再び巨人を優勝に導いた。
再び優勝して、意気揚々と監督を続けていた川上哲治だったが、あるとき、オーナーの正力に呼びつけられる。
富山県での広島戦からの帰りだった。
「失礼します」と部屋に入る。
「バカモノ!」怒鳴られた。
前半5点を取って勝っていた試合。
若いピッチャーが突然、乱れた。大量点を取られ、逆転。
川上は、そのピッチャーに腹を立て、あえて続投させた。その私怨(しえん)を正力は見抜いたのだ。
「お前は、試合に私情を持ち込んだ!私は、川上、おまえをそういう男に見立てていなかったからこそ、監督にしたんだ。野球には、勝負の心、というのがある。常にベストの起用をして、最善を尽くせば、結果はどうでもいい、失敗してもいい、優勝できなくてもいいんだ。だが、この精神を無視した試合をしたら、次は、クビだ!」
一瞬一瞬のベストがなければ、一試合一試合をベストにはできない。
自分の私情をまじえていては、そのベストが尽くせない。
正力は、いつも川上に問うていた。
「川上、命がけでやっとるか?そうか、ならいい。命がけでやって失敗したんなら、そりゃ仕方ない」
正力に教えられ、育てられ、川上はやがて、リーダーとしての哲学を自ら確立していく。
V9時代の巨人軍は、多摩川のグラウンドでも、宮崎のキャンプ地でも、練習前には選手、コーチ全員で小石やゴミ拾いをした。
もちろん川上も加わる。
横一列になって外野から内野へと歩いていく。
最初は、選手がウォーミングアップをしているとき、川上ひとりでやっていた。そのうち選手たちが「私たちもやります!」と参加した。
川上哲治には、統率力についての信念があった。
「職場でも学校でも指導者が率先してやっていく。いったん指示したことは、指示を出したものが何がなんでも守っていく。それができなければ、人はついてこない」
川上は、いつも黙々と行動で示してきた。
選手時代は、誰よりも練習することで、監督になってからは、誰よりも勝つことへの執念を見せることで、まわりを圧倒し、チームを動かした。
彼は言う。
「周囲からどう評価されるかという不安や心配から、自分を解き放ちなさい。大切なのは、修練の果ての無我の境地。努力に無駄は、ありません」
【ON AIR LIST】
プレイボール / YUKI
デーゲーム / UNICORN
MY LITTLE HOMETOWN / 桑田佳祐
サヨナラホームラン / スガ シカオ
閉じる