第八十四話挑戦をやめない
『孤高の人』『八甲田山死の彷徨』『栄光の岩壁』など、山をかかせれば他に追随を許さない迫力がありました。
最も、彼は山岳小説家だと言われるのがあまり好きではなかったようです。
彼がなにゆえ、山岳小説を書くようになったのか。
それは彼の経歴が物語っています。
大学卒業後、中央気象台、現在の気象庁に入庁。
配属されたのが、富士山観測所でした。
それから足掛け6年余り、通算すると7年間、富士山で過ごしました。
気象職員としての最大の功績は、富士山気象レーダーの建設でした。
このレーダーは、世界的にも画期的なものだったので、国連の気象学会でも発表の機会を得ました。
富士山での過酷な観測所暮らしの中、新田は小説を書き始めました。
処女作『強力伝』は好評を博し、この作品で第34回直木賞を受賞します。
彼はことさら富士山に深い愛情を持っていました。
「私は富士山が好きだ。日本人なら例外なく富士山が好きだが、私の場合は青春時代の何年かを富士山観測所で暮らしたこともあり、また富士山気象レーダー建設ということもあったので、富士山に寄せる愛敬の念は他の人よりも一段と深い」。
新田の小説のテーマは、常に『夢と挑戦』でした。
彼が小説のモデルに選ぶひとは必ず、周りから止められても笑われても、挑戦をやめないひとでした。
「私は思います。冒険がないと、進歩はありません」。
小説家、新田次郎が富士山に寄り添い、富士山に問いかけながらつかんだ人生のyes!とは?
小説家、新田次郎は、1912年6月6日、長野県諏訪市に生まれた。
旧制諏訪中学を卒業、その後、無線電信講習所本科、神田電機学校を出て、中央気象台に入る。
叔父に、気象学者、藤原咲平がいた。
気象関連の技術者として生きていくことを決意。
20代後半で、のちに妻となる「てい」とお見合いをする。
場所は上諏訪の旅館。
ていが個室の引き戸を開けると、紺の背広に白いワイシャツの青年がいた。
綺麗に切りそろえられた爪が印象的だった。
ていは思った。
「なんて清潔感のある、新鮮な感じのひとだろう。まるで、もぎたての果物のようだ」。
東京に戻っていく新田を、駅までおくる。
「ていさん、今度は手紙を書きます」彼が言った。
約束通り届いた手紙。
恋文に違いないと、ていが封を開けると、こう書かれていた。
「先日は失礼しました。今日の東京は北東の風、風速5メートル、天気晴れ。ロビンソン風力計が、春の空にせわしなく回っています」
新田次郎とていの千葉県我孫子市での新婚生活は、決して甘いものではありませんでした。
技術者だと思っていた夫は、白衣は着ているものの、毎日、風船を飛ばしているだけ。
家に帰れば、さっさと書斎にこもってしまう。
ちなみにこの風船とは、ラジオゾンデと呼ばれる高層気象用観測装置のこと。
ただ見た目には、ただの気球にしか見えなかった。
そんな新田次郎に、あるチャンスが訪れる。
満州国の気象台への転職。
このまま、中央気象台にいても、帝大出身者のように出世は望めない。でも、満州に行けば…
最初にして最大の挑戦が今、目の前にあった。
小説家、新田次郎が作品のモデルに選ぶのは、挑戦するひと。
それを入念な取材をもとに、緻密に書く。
そしてまた自分自身も、常に挑戦をし続けた作家でもあった。
満州国の気象台で働き、ステップアップを望んだが、戦争の行方は不穏な風に吹かれた。
昭和20年8月9日、満州国に侵入したソ連軍を恐れ、新田の妻と子どもたちは、引揚の旅に出た。
新田は気象台の残務整理のため、留まらざるを得なかった。
行くも地獄、残るも地獄。
妻たちは、なんとか逃げ延びたが、新田はあえなくソ連軍の捕虜になった。
強制連行された中国での壮絶な体験を、新田は家族にも語らなかったという。
厳しい冬との闘い。飢えと疲労。
なんとか日本に戻ることができたが、あの日々を忘れることはなかった。うなされた。
夢で見るのはいつもぼろぼろの服を着てさまよう自分。
『絶望』しかなかった。
目が覚めると、いつも泣いていた。
深い絶望に自らの命を絶つことまで考えた。
でも、死ねない。まだ自分は、死ねない。
絶望の果てに、彼が選んだ人生のテーマは、挑戦だった。
立ち止まったら、ただ朽ちていくだけ。
登れない崖だからこそ、登る意味があるのだ。
小説家、新田次郎は、中央気象台に復帰したが、給料が安かった。
なんとかそれを補う意味もあり、小説を書いた。
懸賞に応募する。ことごとく、落選。それでも、書いた。
構成をきっちり立てる。取材を綿密にする。
やがて彼の書く小説は認められていく。
でも、なかなかサラリーマンを辞める決断ができない。
書くことで食べていけるのか、家族を養えるのか、わからない。
二足のわらじは、きつかった。
昼も夜も、働き続ける。眠る暇はなかった。
会社の同僚には、書きながら働く彼をよく思わないひとも出てきた。
定年まであと6年という54歳のとき、思い切って、気象庁を退職。
ようやく小説だけに専念できる生活を手に入れた。
富士山に教えてもらった移ろう山の景色、厳しさ、そして全てを平等に包み込む、優しさ。
新田次郎が挑戦を描くのは、そこに希望があるから。
なぜ、希望がそこにあることを書きたいか、それは、絶望を知ったから。
挑戦をしないでは生きていけない状況だった。
歩みを止めないためには、常に目の前の壁と闘う必要があった。
文学は感動を与えること。
感動はどうやって生まれるか、そこに冒険がなくてはいけない。
自分ではできそうもないことに挑み続ける精神。
そこにしか、感動の人生はない。
新田次郎は、愛用のピッケルをいつも磨いていた。
それには家族の誰にも触らせなかった。
妻のていは、言う。
ピッケルを磨き、山に行く準備をしているときの新田の顔ほど、嬉しそうなものはなかった、と。
絶望を知った男は、文章というピッケルを手に、誰も登ったことのない感動という山を目指した。
頂上に『希望』という旗を立てるために。
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