第三百三十二話想像力で生き抜く
吉川英治(よしかわ・えいじ)。
代表作は、『宮本武蔵』や『三国志』、そして『新・平家物語』など、歴史をテーマにした大衆小説。
わかりやすい文章で描く魅力的なキャラクターたちと、読者を飽きさせないストーリー展開は、絶大な人気を呼び、連載された新聞が待ちきれず、新聞販売店に押し掛ける人が多くいたほどでした。
1949年、吉川57歳のときには、作家の長者番付で、最高額の1位になるほどの人気ぶりでしたが、そこに至るまでの道のりは、苦難の連続でした。
父の没落により、学業半ばの11歳で奉公に出され、職を転々としながら家族を支えた少年時代。
関東大震災や戦争に翻弄されながら、食べるために必死だった青年時代。
やがて人気作家になっても、家庭をうまく保てず、孤独な日々をおくります。
そして、最も吉川を苦しめたのは、第二次大戦直後の絶望感でした。
戦地に向かう若者たち、特に、特攻隊の兵士たちが、自分が書いた『宮本武蔵』を大切に持参していた事実に、深く胸を痛めました。
剣禅一如という教えに感化された特攻兵。
「私はただ、勇気をもって生きてほしい、どんな困難にも負けない強い心を持ってほしい、そう願って小説を書いてきたのに、結局、戦地に散る若き命を救うことができなかった…。いや、それどころか、彼等の気持ちを高めるようなことになってしまった」
終戦からおよそ5年あまり、彼は一行も小説を書くことができなくなります。
親友の菊池寛(きくち・かん)は、吉川に言いました。
「いま、みんなが辛いんだ。こんなときこそ、キミの小説が必要なんだよ! 吉川君!」
そうして書いた『新・平家物語』は、争うことの無常を説き、多くの国民を癒し、勇気づけたのです。
大衆小説で一世を風靡したレジェンド・吉川英治が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
小説『宮本武蔵』で知られる国民文学作家・吉川英治は、1892年8月11日、現在の神奈川県横浜市中区に生まれた。
父は、元小田原藩士の家系。
気位が高く、封建的で癇癪持ちだった。
箱根で牧畜業に失敗すると、横浜で貿易の仲買人の仕事を始める。
順調に商いは進み、急に羽振りがよくなった。
毎晩飲み歩き、酒におぼれ、家で暴れた。
外に女性を囲うようになり、母はいつも泣いていた。
子ども心に英治は思う。
「母さんは、どうしてこの家から出ないんだろう」
父が暴れると、母は幼い妹を連れて、裸足で逃げる。
寒空の中、母と妹を探し、連れ帰るのが英治の役目だった。
「父さんは?」
「もう寝たから大丈夫だよ」
暗い路地で寒さに震えながら立っている母と妹の姿を見ると、胸が締め付けられた。
でも、英治がもっとつらかったのは、母が口癖のようにこんな言葉を吐くことだった。
「あんたたち子どもがいなきゃね、母さん、とっくに逃げてるのに」
母はただ、子どもを守りたい、という思いで言ったのだけれど、英治は、そうとらなかった。
「ボクなんかこの世にいなければよかった。ボクがいなければ、母さんは自由になれたんだ」
小説家・吉川英治が尋常小学校に通っているとき、最も好きな時間は、貸本屋の店先で講談の本を読んでいるときだった。
家で本を読んでいると、「小説なんてもんは、何の役にも立たん!」と、ビリビリに破かれてしまう。
貸本屋で立ち読みしていれば、父に邪魔されず、好きなだけ空想の世界に遊ぶことができた。
家に帰れば、父と母の喧嘩。
逃げ惑う日々が続く。
貸本屋の白いひげの店主は、そんな英治の事情を知ってか知らずか、立ち読みを見て見ぬふり。
あるとき、小さな椅子を用意してくれる。
「そんなに立ってちゃ、辛かろう。ま、そこに座んなさい」
あるときは、ふかした芋をくれた。
「坊は、ほんとに本が好きなんだな」
半年もたたないうちに貸本屋の本は全部読み終えてしまう。
今度は露店の古本屋をめぐった。
当時、横浜の港には絶えず縁日があり、本を並べる出店があった。
片っ端から読みあさる。
特に夢中になったのは、『三国志』。
物語の中にいるときは、自分は英雄であり、すぐれた剣の使い手だった。
威張り散らす父を、何度刀で成敗したか知れない。
でも、家に帰れば結局、母を守れない自分がいた。
尋常小学校から高等小学校に優秀な成績で進んだ11歳のとき、世界が変わる。
いきなり父に言われた。
「英治、おまえはもう学校に行く必要はない。働きに出ろ!」
吉川英治が11歳のとき、父が無一文になった。
日露戦争のあおりを受けて商売に暗雲がたれこめ、挙句の果てに、共同経営者に訴訟を起こされ、やがて文書偽造の罪で刑務所に入ってしまう。
家も家財道具も失う。
仕方なく、英治は小学校を中退し、ハンコ屋さんに奉公に出る。
朝暗いうちから掃除に炊事、おかみさんの肩もみまでして、立ったまま冷や飯をかきこむ。
夜は冷たい寝具に横たわり、泣いた。
唯一の拠り所は、読書と、母から来る手紙だった。
母を守りたい、母に少しでも楽な生活をさせてあげたい。
その一心で、厳しい現実に耐えた。
苦しい日常で、想像力だけは誰にも邪魔されないことを知る。
辛いことがあると、空想の世界に逃げた。
自分は、戦乱の世を生きぬく戦国武将だ。
誰にも負けない。どんなに不利な戦でも、前に進む。
空高く舞い上がる狼煙は、少年の心を勇気づけた。
ハンコ店の店先では、いつも決まった曜日に俳句の会が催された。
掃除をしながら、大人たちの作る俳句に耳を傾ける。
あるとき、句会の男が「そこの坊主、『雨』ってお題で何か書いてみろ!」と、英治に白い紙と筆を渡した。
英治は、俳句ではなく、雨の中を行き交う人の群れをリアルに映した文章をしたためた。
大人たちは、驚いた。
そこには、読んだことのない物語が始まるような、ワクワクする描写が綴られていた。
「坊主、おまえは小説家になるといい」
店先の男は、そう言った。英治は思った。
「そうか…ボクがつらいとき、お話に救われたように、誰かがつらいときに元気づけられる物語を、ボクが書けばいいんだ。その小説が売れれば、母さんに好きなものを食べてもらえるようになるかもしれない。そうすればもう、ボクを生まなきゃよかったなんて思わなくなるかもしれない」。
作家・吉川英治の原点には、いつも、貧しさと母への愛があった。
そして、想像力の魔法を誰よりも信じていた。
【ON AIR LIST】
One more time,One more chance / 山崎まさよし
ABOUT MY IMAGINATION / Jackson Browne
好きなものに変えるだけ / 槇原敬之
★今回の撮影は、青梅市吉川英治記念館様にご協力いただきました。ありがとうございました。
営業時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
青梅市吉川英治記念館
https://ome-yoshikawaeiji.net/
閉じる