第九十一話立ち続ける覚悟
5月29日は、彼女の誕生日です。そして、今年が生誕80年。
52年間の生涯は、壮絶な戦いの連続でした。
美空ひばりには、二つの関わりで、栃木県日光市に縁があります。
まず、父親が日光市出身であること。
そしてもうひとつが、彼女が奇跡の復活を遂げた曲『みだれ髪』の作曲者、船村徹(ふなむら・とおる)の記念館が栃木県日光市の今市にあるということ。
船村が『みだれ髪』を書いた頃の美空ひばりは、とても歌を歌えるような状態ではありませんでした。
度重なる身内の死。鶴田浩二、石原裕次郎という親友もひばりの闘病中にこの世を去りました。
50歳になるひばりの体は病魔におかされ、ボロボロでした。
肝硬変。そして大腿骨は壊死を起こし、立ち上がるだけで腰や足に激痛が走ります。
それでも、歌が歌いたい、もう一度ステージに立ちたい、という強い思いは、彼女に奇跡を起こします。
『みだれ髪』という曲で、船村は今まで以上の高い音をひばりに求めました。
真の不死鳥であってほしいという祈りにも似た願いからでした。
プロデューサーでもある母親は、反対しました。
「ひばりには、つらすぎる」
レコーディング前日まで立つこともできません。
でも、その日がやってきたとき、彼女はすっと笑顔で立ち上がり、一発録りを成し遂げました。
そのときの美空ひばりの歌に、船村は鳥肌が立ったと言います。
どれほどの激痛が彼女を苛んでいたでしょう。
それでも、最高の歌声だったのです。
『みだれ髪』の歌詞にある灯台のように、孤独に耐えながら常に灯りを灯し続けた歌姫、美空ひばりが、その生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
美空ひばりは、1937年5月29日、神奈川県横浜市に生まれた。
ときは日中戦争が勃発、翌年には国家総動員法が定められ、国内は日増しに不穏な空気に包まれていった。
そんな中、ひばりの家には、エンターテインメントの環境がそろっていた。
ひばりの父は、現在の栃木県日光市に生まれ、横浜の鮮魚店に奉公に出て、やがて独立。
自らもギターを弾く音楽好きだった。
母もまた、小遣いは全てレコードに使うほど歌が好きで、ひばりの家にはいつも音楽があふれていた。
ひばりの記憶力は、3歳の頃には周りの知るところとなった。
絵本をそらんじる。一度聴いた曲は、完璧に歌うことができた。
4歳のときには、歌手のステージの真似事をして、家族を驚かす。
ゆっくり開く襖(ふすま)の向こうに、深々とおじぎする幼いひばりがいた。
6歳のとき、父が出征することになった。
駅での見送り。ひばりは、歌った。みんな涙する。
そのときのことを、彼女はこう振り返っている。
「父が戦争に行くという哀しみより、大ぜいの人の前で歌うこと、そしてその人たちがハラハラと涙を流すこと、大きな拍手をもらうことに、私は感動を覚えていた」。
ひばりの才能を知った母は、楽団を結成。
8歳のときには、磯子にある小さな劇場に立っていた。
しかし、さまざまなオーディションを受けても、ことごとく落選。
母がプロデューサーにくってかかる。
「こんなにうまいウチの子が、どうして落とされるんですか?!」
プロデューサーは答えた。
「うますぎるんですよ。子どもらしくないんだよね。」
ひとは、見たことがないものを排除する。
自分を不安にするものを好まない。
美空ひばりは、ゲテモノとまで言われたという。
でも、彼女はくじけなかった。歌をやめなかった。
小さな批判は、大きな志で吹き飛ばすしかない。
美空ひばりは、10歳のとき、生死をさまよう事故に遭う。
巡業先の四国、高知県。
彼女を乗せたバスは、国道32号線で、前方からやってきたトラックをよけようと崖に転落。
一説によれば、バンパーが一本の桜の樹にひっかかったことにより、崖下に落ちずにすんだ。
ひばりは、心肺停止。瞳孔は開いていた。
たまたま近くに医師がいて、ひばりは一命をとりとめた。
懸命の治療。治ったひばりは、医師に手をひかれ、村にある大きな杉の樹を参った。
そこで、ひばりは手を合わせる。
「どうか私を日本一の歌手にしてください」。
5年後、順調にスター街道を登りつめていた彼女が、再びこの杉の樹の前で手を合わせたとき、偶然にも、かつて自分を救ってくれた医師が隣り合わせたという。
彼はひばりを見て、両目に涙を浮かべ、手を握った。
彼女の薬指と小指の間が少し離れているのを見て、「すまなかったねえ、十分な設備がなかったので、満足な手術ができなかった」。
彼はただただ、自分の仕事を成し遂げられなかった悔いを口にした。
プロとは、こういうひとのことを言う。
すでにスターである美空ひばりを仰ぎ見るのではなく、自分の仕事の矜持(きょうじ)と闘っている。
「ありがとうございました」
ひばりも涙を流して、頭を下げた。
美空ひばりの伝説のステージ。
復帰公演の東京ドーム「不死鳥コンサート」は、壮絶なものだった。
会場のすぐ近くに楽屋を設置。
医師、看護師を配備。万が一に備え、救急車も待機していた。
公演前、楽屋を訪れた浅丘ルリ子が、簡易ベッドに横たわるひばりに「大丈夫?」と声をかけると、「大丈夫じゃないけど、がんばるわ」と笑顔で答えた。
常人なら立っていても激痛が走る状態で、彼女は39曲を歌い切った。
フィナーレでは、およそ100mの花道を歩いた。
生涯最後のシングル『川の流れのように』について、彼女はこんなふうに語った。
「これからの私は、大海にスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるか、誰にもわからないのよね」。
彼女は常にプロであろうと努めた。
それはおそらく、父の出征を見送った幼い日から。
暗闇を照らす灯台のように、彼女はステージに立ち続けた。
ひとは、もともとプロなのではない。
プロになっていくのだ。
ひとは、もともとスターなのではない。
スターになるために死ぬ覚悟でのぞむとき、初めてスターが生まれる。
【ON AIR LIST】
みだれ髪 / 美空ひばり
Shake It Out / Florence And The Machine
Million Reasons / Lady Gaga
川の流れのように / 美空ひばり
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