第百十五話哀しみに向き合う
その広大な草原に隣接するのが、白い瀟洒(しょうしゃ)な建物、青森県立美術館です。
青森の豊かな自然が育んだ、個性的な作家たちの作品がゆっくり味わえます。
その美術館の、ある有名なホール。
それを観るためだけに全国、いや世界中からひとがやってくる、知る人ぞ知る稀有な展示室です。
その名は、「アレコホール」。
20世紀を代表する画家、ロシア出身のマルク・シャガールが、バレエの演目「アレコ」のために画いた背景画が飾られています。
四層吹き抜けの大空間の白い壁一面に架けられた壮大な絵は、日本で展示されるシャガールの絵で最も大きなものです。
通常は、アレコという演目の四幕のうち、三つの絵しか飾られていないのですが、現在、フィラデルフィア美術館の厚意により、四幕の絵がおよそ10年ぶりにそろいました。
これら4枚の絵を画いたときのシャガールは、決して幸せで順風満帆な状態ではありませんでした。
ユダヤ人である彼は、ナチス・ドイツの迫害から逃れるために、住み慣れたフランスを離れ、アメリカに亡命したのです。
およそ7年間の、異国での暮らし。
この時期、シャガールは、二つの大きなものを失います。
ひとつは、ふるさとロシアの街、ヴィテブスクがナチによって破壊されたこと。
そしてもうひとつは最愛の妻、ベラの死。
深い喪失感と失意の中で、彼は、絵を画くことで自らを保ちます。
ひとは、耐えがたい哀しみをいだいたとき、思うようにならない人生に翻弄されたとき、いったい何で自分を支えるのでしょうか?
マルク・シャガールが数奇な人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
画家、マルク・シャガールは、1887年7月7日、帝政ロシア領ヴィテブスクにユダヤ人の子として生まれた。
街のほぼ半分の住人がユダヤ人だった。
ヴィテブスクの街並みは、美しく、斬新。
ユダヤ教の会堂、シナゴーグや教会が立ち並ぶ路地は、絵画のように洗練されていたという。
ひとびとは、「ロシアのトレド」と呼び、賞賛した。
父は、魚売り。母は、自宅で食料を売っていた。
父の稼ぎは重労働のわりに、決してよくなかった。
でも、毎朝、夜が明けきらないうちに、重い重い樽を抱えて出かける父を、シャガールは尊敬した。
「父さんは、すごい。ボクたち9人兄弟を育てるために、一生懸命だ。ひとことの愚痴も言わずに、今日も寒い中、出かけていく」
のちに画家になったシャガールの絵に、魚が多く登場するのは、このときの父親への敬愛のしるしだと言われている。
当時、ユダヤ人の子どもは、ユダヤ人の学校にいくしかなかった。
でも、母親は優秀な息子を、どうしてもロシアの学校に進学させたいと思い、学校に乗り込んだ。
「ウチの子はねえ、優秀なんだよ。学校っていうのは、優秀な子をさらに伸ばしてくれるところなんだろ?お願いします、ウチの子を入れてください!」
誰もが規制に反発できない風潮を母親は気にしなかった。
結果、校長にお金を払うことで入学を許された。
そんな母親の教育に対する熱意を、シャガールは裏切ることになる。
画家、シャガールは、13歳でロシアの学校に入学したが、あるとき、同級生が画いた絵を見て興味を抱く。
「ねえ、君、これはどうやったら、画けるようになるんだい?」
尋ねると同級生は答えた。
「そんなのは、簡単さ。図書館に行って、好きな絵を選び、ひたすらそれを真似してみればいいんだ」
シャガールは、さっそく言われたとおりにして、模写に熱中する。
ひとつのことに心を傾けると、わき目もふらず集中できる才覚を持っていた。
やがて、絵を画くことに目覚めた彼は、ある日、母親に言う。
「母さん、ボクは画家になりたいんだ」
母親は、ガッカリした。そんなものになるためにロシアの学校に入れたわけじゃない。
医者、学者、弁護士、政治家。
お金を稼げるひとになってほしい。それなのに…。
でも結局、母親は折れた。
我が息子の意志を尊重したというより、彼の頑固さを知っていたから。
シャガールの真っすぐな気持ちは、画家としての立ち位置にも表れる。
当時、ユダヤ人芸術家は、二つの道の選択を迫られた。
ひとつは、ユダヤ人であることを隠すという道。
もうひとつは、ユダヤ人というアイデンティティを大切にして、むしろユダヤ的な発想や表現を前面に推し進めるという道。
後者の道を、彼は選んだ。
「人生に隠し事をするなんてありえない。ボクは一生、ユダヤ人であることを誇りに思う。父さんや母さんを誇りに思うように」
故郷ヴィテブスクから、サンクトペテルブルクの一流美術学校に入学。
お金はなかった。自分には勤勉と努力しか、武器はない。
ひとが1日に10枚、デッサンを画くなら、100枚画いた。
ひとが課題を1週間後に提出するなら、翌日出した。
やがて、誰もが賞賛する絵を画けるようになっていく。
でも、シャガールは、そこで歩みを止めない。
「ボクは、もっともっと成長したい」
ロシアを出て、パリに出る決心を固めた。
1910年のパリは、すごかった。刺激にあふれている。
いろいろな作風を試す。そうして最愛のひと、ベラに出会った。
ベラは誰よりもシャガールを理解し、彼の作品を愛した。
ベラに愛されることで、彼は初めて攻撃的な画風を捨てた。
テーマは、愛。そして、描く題材はなぜか、ふるさと、父や母との思い出、子どもの頃見た風景になった。
ナチスにフランスを追われて、アメリカに渡ったとき、彼はむしろ、ふるさとを身近に感じた。
ひとは、いつしか自分のふるさとに帰る。
ひとは、幼いころの記憶に戻る。
迫害され、故郷をめちゃくちゃにされ、愛する妻を失っても、彼はそれに向き合うことで乗り越えた。
青森県立美術館に展示されている、壁画とも思える4枚の絵は、彼の決意の表れ。
彼が愛したもので、充ちている。
哀しいことに出会ったとき、どうにもならないことに遭遇したとき、ひとは自らに返る。
自分の立脚点に立ち戻ることで、きっと、明日への希望が見えてくる。
【ON AIR LIST】
Stay Alive / Jose Gonzalez
Make You Feel My Love / ADELE
ボクサー / Simon & Garfunkel
The Golden Age / Beck
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