第二百二十八話生きる意味を見出す
華岡青洲(はなおか・せいしゅう)。
ときは、江戸時代。
鎖国政策の中、オランダからの洋書だけを頼りに、医学者たちが西洋医学を学びつつあった過渡期。
山脇東洋が日本人初の人体解剖を行い、杉田玄白が『解体新書』を刊行して、近代日本医学の夜明けを告げた頃、青洲はひとびとの痛みに向き合いました。
彼の名前を広めたのは、同じく和歌山県出身の作家、有吉佐和子の『華岡青洲の妻』という小説でした。
1966年に出版されたこの作品は、青洲の麻酔薬の実験台に自ら志願した嫁と母の壮絶な愛の物語。
大ベストセラーになり、映画やテレビドラマ、さらには舞台化もされ、今も上演され続けています。
青洲のふるさと、和歌山県紀の川市には「青洲の里」という記念施設があります。
彼はこの地に診療所と医学校、そして自らの住居を兼ねた「春林軒」をつくり、多くの患者を救い、たくさんの門下生を育てました。
その腕を見込まれ、紀州藩主から公の医師、侍医としての待遇を告げられますが、それを断ります。
「公職についてしまうと、一般の患者さんの診療ができなくなります。私は、ただひたすら、地元のみなさんのお役に立ちたいのです」
再度要請を受けても、なかなか首を縦に振りませんでした。
彼にとって大切なのは、大いなる出世ではなく、自らの本懐に気づき、自分が一生を賭けてやるべきことは何かを見つめ続けることだったのです。
富や名声より生きる意味に一生を賭けた近代医学の父、華岡青洲が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
世界で初めて全身麻酔を成功させた医師、華岡青洲は、1760年、現在の和歌山県紀の川市に生まれた。
のどかな山あいの農村で、父は開業医として地元のひとたちの信頼を集めていた。
お金がない農民からは、治療費をもらわない。
家は貧しかった。
幼い青洲は、隣の診察室から聴こえてくる阿鼻叫喚を聴いて育つ。
はじめは父が、来たひとをいじめているのではないかと怯えた。
でも母が「お父さまはね、悪い病気を治す、えらいおひとなんだよ」というのを聞き、医術に興味を持つ。
父と一緒に薬を煎じ、父が使った道具や手ぬぐいを洗う。
やがて助手のように、父の一挙手一投足をひたすら見つめるようになった。
ひとつのことに集中したら、周りが見えない。
そんな青洲を現すエピソードがある。
幼い青洲は、山道で小判が何枚も入った布袋を拾う。
彼は、その布袋を持ったまま、待つ。
落とし主が現れるまで、ひたすら立ち続けた。
ようやく落とし主がやってきたのは、夕闇迫る頃だった。
村人や子どもたちは、そんな青洲を笑った。
愚直、愚鈍。一本ネジが抜けているんだと揶揄するものもいた。
母は、言った。
「気にすることなんかないですよ。ひとつのことに集中できないひとは、何事も為すことができません」
日本近代医学を推し進めた医聖、華岡青洲は、16歳で京都に行きたいと切望する。
当時、西洋医学の流れは全て京都に集まっていた。
オランダの洋書を読み西洋医学に触れて、東洋医学のみの父の医術だけでは患者が救えないと確信した。
「京都に行って、西洋医学を学びたい」。
父に進言した。
一度心に決めると、あとにはひかない性格。
しかし、華岡家にはお金がない。
母と妹は、一日中、機を織って反物をつくり、お金をつくった。
母と妹の手は豆ができ、それがつぶれ血だらけになる。
それでも機を織り続けた。
良き家柄から嫁いできた母は、青洲に華岡家の栄華を託した。
なんとかお金を工面できた青洲は、京都に旅立つ。
寝食を忘れ、必死に猛勉強を続けた。
彼は心に決めていた、流儀があった。
「他人の治し能わざるものを治せんことを目途とする。他人の治し能うものを治し得るがごときは、終生の恥辱なり」
すなわち、他人が治せない患者を治してこそ、自分の生きる意味がある、ということ。
ひとと同じことをやっても、仕方がない。
ひとに後ろ指をさされない程度にそこそこ頑張っても、そこそこの人間にしかなれない。
言いたいやつには言わせておけばいい。
大切なのは、自分がこの世に生まれた意味を探すこと。
そして、一度つかんだ意味は、何が何でも手放さない覚悟を持つということ。
華岡青洲は京都での遊学を終え、26歳のとき、ふるさと、和歌山に戻った。
青洲の帰還を待つように、父が亡くなる。
やがて、最愛の妹も命を落とした。乳がんだった。
京都で買いそろえた最新の医療器具も、西洋医学の知識も、何の役にも立たない。
悔し涙を流す。
自分を京都におくるため、必死に働いてくれた妹。
手術さえ、できていれば…。
当時の医者は手術を回避していた。
患者は暴れ、あるいは失神し、痛みのあまり亡くなってしまう。
青洲は、京都で知った、中国・後漢時代の伝説的名医「華佗(かだ)」の書物を思い出した。
そこには、薬と酒で患者の意識を無くし、外科手術を施す、とあった。
具体的な薬の配合の記述はない。
でも、青洲は確信した。
「そうだ、麻酔だ。麻酔さえあれば、患者が痛がることなく手術ができる」
こうして、彼の意識、生活は全て麻酔づくりに捧げられた。
寝食を忘れ、薬の配合に挑む。
マンダラゲやトリカブトなど6種類の薬草が必要であることはわかった。
大事なのは、成分の比率。
動物実験を重ね、近所から怖がられ、忌み嫌われる。
やがて妻が、そして母が、実験台に名乗りをあげた。
その後遺症で母が亡くなり、妻が失明しても、青洲は、麻酔薬の開発のために足を止めることはなかった。
1804年10月13日。
60歳の女性の命を、世界で初めての麻酔手術で救った。
その女性は、乳がんだった。
その後、青洲は、150人以上の乳がん患者の命を救い、多大な賞賛を受けるが、終生、和歌山にとどまる。
彼は亡くなる前も、こうつづった。
「私は、富や名声より、竹垣をめぐらし、野鳥の声がする田舎に暮らし、ひたすら瀕死の病人を救いたい。それだけで幸せです」
【ON AIR LIST】
Dr.MY EYES / Jackson Browne
FATHER AND SON / Cat Stevens
HEAL THE PAIN / George Michael
KEEP HOLDING ON / Avril Lavigne
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