第百七十六話理想と現実の両輪で動く
大正11年にできた、世界に誇る社交場『東京會舘』も、今年の1月、生まれ変わりました。
関東大震災や戦火をくぐりぬけ、東京の変貌を見守り続けた老舗のホテルには、数多くの著名人が集いました。
その中のひとり、「日本資本主義の父」と言われたのが、渋沢栄一です。
大手町にある銅像は、日本の未来を案じるかのように、遥か彼方を見据えています。
武士から官僚へ、そして実業家として500余りの会社を設立し、教育者としても名を馳せ、ノーベル平和賞に二度もノミネートされた賢人。
日本の初代銀行や東京証券取引所も、彼の力なくして、設立はかないませんでした。
彼の最大の流儀は、著書『論語と算盤』に集約されています。
かの二刀流大リーガーも熟読したと言われているこの本の趣旨は、道徳と経済の両立です。
すなわち、心の豊かさとお金の豊かさ。
渋沢栄一が最も嫌ったのは、自分の私利私欲だけのために、倫理を無視してお金もうけに走るひとでした。
反対に、道徳に厳しいがあまりに、お金もうけを忌み嫌うひとにも容赦ありません。
その二つは、両輪。
どちらが欠けても、日本という国は豊かにならない。
渋沢は本の中で言っています。
「どんな手段を使っても豊かになって地位を得られれば、それが成功だと信じている者すらいるが、わたしはこのような考え方を決して認めることができない。素晴らしい人格をもとに正義を行い、正しい人生の道を歩み、その結果手にした地位でなければ、完全な成功とは言えないのだ」
それはただの正論だと一蹴できない重みが、彼の言葉から立ち上ってきます。
いかにして彼はそんな境地にたどり着いたのか。
渋沢栄一が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
日本資本主義の父、渋沢栄一は、1840年3月16日、武蔵国血洗島、現在の埼玉県深谷市に生まれた。
家は、農家のかたわら、染料のもとになる藍玉の製造、販売や、蚕を飼育し生糸をつくる養蚕業を営んでいた。
天候の不順で農作物に影響が出ても、他の事業でバランスをとる。ひとつがダメでも他でまかなう。
父は、実業家としての才覚があった。
世は幕末。武士たちはお金を稼ぐことは恥と思い、それでも以前と違わぬ暮らしを続け、挙句の果てに借金をつくった。
農家や商人から金を借り、踏み倒す。
栄一の父も、多くの武士にお金を貸していた。
幼いながらに栄一は、父のこんな言葉を覚えている。
「いいか、栄一、金なんてもんは、貸したが最後、戻ってこないと思ったほうが心にはいい。まあ、みてろ、あの武士もこっちの武士も、二度とここへは足を踏み入れないだろう。金が返せないからなあ。そうして世界を狭くしていくんだ。
哀しいねえ、自分で自分の世界を小さくしちまう生き方は、哀しいねえ。やつらは知らないんだ。金を使いこなすには、それなりの人格が必要なんだよ」
そのときの父の細めた目を、栄一は怖いと思った。
渋沢栄一の父は、学問を重んじた。
6歳のとき、父に手ほどきを受けながら『論語』を読んだ。
「意味など、今はわからなくていい。とにかく書物に触れる習慣を持ちなさい」
7歳になると、尾高惇忠(おだか・あつただ)という教育者に習いに出かけた。
尾高はのちに富岡製糸場の場長になる実力者で、地元の名士だった。
当時は、文章を暗記させることが教育の基本だったが、尾高は違った。
「暗記などしなくていい。中身もわからず暗記しても、役には立たない。それより、さまざまな書物を読みなさい。ひとつひとつ、意味を解説してあげるから」
さらに尾高は、本を読んだあと、必ず栄一に尋ねた。
「どう思った?何を感じた?ここからおまえは、何を学ぶ?」
最初は、それが恐かった。嫌だった。
でも、ときどき褒めてもらえるとうれしくなった。
「そうだ!栄一、よく気がついたなあ、この文章には、そういう意味が隠されているんだ!」
さらに読書のこつも教えてくれた。
「読みやすいものから読めばいいんだ。『八犬伝』?『三国志』?いいじゃないか。読み癖をつければ、こっちのもんだ。本は、いいぞ。世界を拡げてくれる」
こうして、栄一は本を読むのが大好きになった。
あまりに好きすぎて、通学の途中、本を読んだまま、あぜ道に落ちてしまうほどだった。
着物を泥だらけにして帰ると、母は激怒。
しかし、父は豪快に笑った。
「はははは、そうか、栄一は本を読んだまま溝に落ちたか、ははははは、愉快だ。これは愉快だ」
渋沢栄一は、14歳になった頃、父に家業を手伝うように言われた。
「学問は、学問として励みなさい。しかし、おまえは我が家の跡取り。農業、商売を覚えなくてはならない」
麦をつくり、蚕を育て、染料のもとになる藍を買い付けにいく。
さらにつくった藍玉を、信州や上州に売りにいく。
初めて、商売の駆け引きを知った。
安く仕入れて、高く売る。そんな売り買いの基本を学んでいく。
ひとりで、ある村に藍を仕入れにいった。
父が言っていた言葉を真似る。
「これは肥料が悪いですね」「茎の切り方がよくないなあ」「下の葉っぱが枯れてますよ」
藍の農家は驚いた。
とんでもない子どもがやってきたと評判になる。
たちまち、安い値段で買い付けに成功。父に褒められた。
いい気になって、次の村でも同じようにやってみるが、今度は向こうが上手。
栄一を褒めて褒めて気持ちよくさせて高く買わせてしまう。
結果、質の悪い藍を買いこんだ。
父は言った。
「おまえの心が腐っているから、このようなことになるんだ。わかるか。なんのために学問をする?心を鍛えるためだ。少しくらい褒められていい気になるようでは、学問も商売も、たいしたことにはなるまい」
藍の葉に、栄一の涙がポタポタと落ちた。
この悔しさを忘れないようにしよう。そう誓った。
足元の現実につまずかないように。
そして、未来を見通す理想の目を持ち続けられるように。
しっかりと心を保ち、本業に邁進する。
【ON AIR LIST】
MONEY / The Beatles
BLACK BYRD / Donald Byrd
LOVE OF MINE / Bardo Martinez
MONEY DON'T MATTER 2 NIGHT / Prince & The New Power Generation
閉じる