第百一話覚悟を持つということ
その川沿いにユニークな施設があります。
『盛岡てがみ館』。
盛岡にゆかりのある作家や著名人の直筆の手紙や原稿、日記などが展示されています。
字は、ひとを表す。宮沢賢治や、後藤新平の字を見ていると、彼らのひととなりが見えてくるような気がします。
展示された手紙の中で、ひときわ異彩を放つ書簡があります。
3メートルにも及ぶ、長い長い手紙。
それを書いたのは、盛岡に生まれた言語学者、金田一京助です。
彼は盛岡中学校時代の友達に、読みやすい、綺麗な字で思いを綴りました。
内容はほぼ全て、石川啄木のことです。
金田一は、石川啄木と親友であり、啄木の才能にいち早く気が付いた賢人でした。
手紙には、自分の下宿に転がり込んできた啄木の様子や彼の輝かしい未来が、微笑ましい文体で書かれています。
金田一自身、かつて詩を詠んでいましたが、啄木の前には自らの凡才を悟らずにはいられませんでした。
「おまえは、きっと有名になる。おまえはきっと世間をあっと言わせる文人になる。だから、諦めるな!」
ともすればすぐに落ち込んでしまう啄木を鼓舞し、応援しました。
ときには、自分の大切な蔵書を売って、啄木にお金を工面したこともあります。
「ひとがやらないことは金にならない。でもそういうものをやる人間がいなくちゃ、この世は前に進まないよ」
金田一自身もまた、ひとがやらないことを進んで自分に課しました。
その最大の功績が、アイヌ語研究。
裕福な家庭に生まれながら、貧しい生活を選び、アイヌ語を残すために一生を捧げたのです。
言葉に命を賭けた金田一京助が、波乱の生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
言語学者、金田一京助は、1882年5月5日、岩手県盛岡市に生まれた。
金田一の曽祖父は、米などの穀物の商いで財をなした実業家。
しかもただの大金持ちではなく、飢饉の際には、自らの蔵を全て開け放ち、農民を救った名士だった。
南部藩から認められた名家に生まれた京助は、裕福な環境で育った。
長男だった彼に、ほどなくして弟が生まれる。
まだ母の乳が飲みたい頃。引き離される。
乳母に預けられたが、この乳母が怖かった。
折檻がきつい。
あるとき実家に戻ってきた京助が、乳母のもとに帰りたくないとだだをこねた。
「甘えてはいけません」と母は言った。
でも、婿養子の父は、3歳にも満たない京助に「坊、どうして行かないんだ?」と優しく聞いた。
そのとき、京助が発した言葉が、初めて自分が認識した日本語だった。
「ランプ、オツム、カチン、ふーふ、ボウボウ、ガチンガチン」。
翻訳すれば、こうだ。
乳母の折檻は激しく、ランプに頭をぶつけるほどだったらしい。
揺れるランプの炎。頭が痛い…。
父は、そこで、言った。
「そんなに嫌なら、乳母のところに行くことはないよ。ここにいればいい」。
京助の父は、商売の才覚はなかったが、字や絵がうまく、文学にも精通していた。
母は弟のもの。幼い京助は眠るとき、いつも父に抱かれた。
毎夜、物語を聞かせてもらった。平家物語、源平合戦…。
時には父の作り話になり、思いもよらぬ展開が待っていた。
ワクワクした。夜になるのが楽しみだった。
京助の心に、文学が、言葉が、宿った。
言語学者、金田一京助は、幼い頃から絵がうまかった。
中学に入る頃には、きっと日本画家になるんだろうと思っていた。
しかし、中学一年の夏。不慮の事故が起きた。
父は不在。京助が弟と寝ていると、母の枕もとのランプの灯がぼうっと燃え上がり、蚊帳に燃え移っていた。
あわてて消そうとランプに手を入れる。ガラスが破裂。手を切った。
血がだらだらと流れても痛みは感じなかった。
なんとか火をくいとめ、蚊帳がこげる程度で済んだ。
でも、京助の右の手のひらは、大きく裂けてしまった。
以来、中指と薬指の二本が曲げられなくなった。
絵描きを諦めるとき、泣いた。本を読んで、自分を慰める。
金田一京助の字が読みやすいのは、満足に動かない右手を一生懸命使うからだ。
何十年もかけて、やっと書けるようになったからだ。
優しい字の陰には、闘いがあった。
普通にできることをできぬと知ったとき、ひとは、選択を強いられる。
「闘い続ける覚悟は、あるか?」
金田一京助は、大学で小説や詩を学び、自分も書いてみたいと思った。
でも、言語学に興味を持った。
「日本語の起源ってなんだろう」。知りたくなる。
日本語とアイヌ語の関係をテーマに研究を始めた。
「アイヌは日本にしか住んでいないのだから、アイヌ語研究は世界に対する、日本の学者の責任ではないか」
そう思った。
ただ、学ぼうとしても、文献も辞書もそろってはいなかった。
ゼロからの出発。現地に赴き、言葉を集めるしかない。
アイヌ語には、ひとつひとつの言葉に人称がくっついていた。
「愛する」という言葉には「私は愛する」という人称がついている。
これは、ネイティブアメリカンの言葉に似ていた。
のめり込んだ。これを一生の仕事にしたいと思った。
しかし、お金にはならない。それでも、父は応援してくれた。
あるとき、久しぶりに盛岡に帰省して驚いた。
一家は本家の長屋。父、母、弟や妹はひしめくように一緒に暮らしていた。
それでも京助は、全くお金にならないアイヌ語研究を続けた。
1912年、京助、30歳の秋。父は亡くなった。
最も生活が苦しいときに、心を病んで逝ってしまった。
「オレが、アイヌ語なんかやるからこうなるんだ!」
自分に腹が立った。優しかった父の思い出がよみがえる。
風邪をひいて寝込む自分の傍らで、必死に凧をつくってくれた父。
「元気になったら、これ、あげにいこうなあ、京助」。
父を犠牲にした。親孝行のひとつもできなかった。
アイヌ語を記したノートを畳にぶちまける。
「やめだ!やめだ!こんなもんやめだ!」
でも、散らばるノートを見て思った。
「父をも犠牲にした仕事だからこそ、僕は命を投げ打ってやらねばいけないんじゃないか。一生懸命やってこそ、父に顔向けできるんじゃないか」。
そこから、金田一京助の新たな歩みが始まった。
人生に、迷っている暇などない。我がゆく道を、行くしかない。
仕事には、覚悟が必要だ。
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