第三十九話満身の力をこめて
「虞美人草」。
虞美人草とは、ヒナゲシのこと。
真っ赤で妖艶な花が特徴です。
漱石は小説に出てくる、自己愛の強い利己的な女性に、その花の強烈な個性を重ね合わせました。
利己的であることと、己を律する道徳心。
その対立が物語の拮抗を生んでいます。
この小説を書いたのは、明治40年、1907年です。
この年の3月、漱石は、勤めていた東京帝国大学と第一高等学校に辞表を出しました。
4月から朝日新聞社の専属作家になったのです。
いわゆる職業作家としての第一作が、この『虞美人草』でした。
ものを書くだけの人生。
それは彼にとって、夢であり、願いであり、祈りでした。
幼い頃から病と格闘してきた漱石にとって、命はいつなくなってしまうかもしれないもの。
だからこそ、自分がやりたいことをやり遂げて死にたい。
頭の中に沸き起こるアイデアやテーマを少しでも多く具現化したい。自分の力を全て出し切りたい。
そんな思いを最初にぶつけた作品、それが『虞美人草』でした。
読むひとを引っ張るエンターテインメントな図式を守りつつ、彼は文語体の文章を駆使して、まるで全てのセンテンスが俳句のように奥深く、読むひとを物語に引き込みます。
京都を旅する二人の男の運命に、夏目漱石が託した思いとは?
決して順風満帆ではなかった彼が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
作家・夏目漱石の幼年時代は、決して恵まれたものではなかった。
1867年2月9日、今の東京、牛込に生まれた。
両親は高齢だった。たくさんの兄弟の末っ子。
母は「この歳で子供を産んで面目ない」と恥じた。
そのせいか、漱石は古道具屋に養子に出される。
その後、また別の家にたらい回し。
塩原家の養子になるが、この夫妻が離縁。塩原姓のまま、夏目家に戻ってくる。
実の父母を、おじいさんとおばあさんだと思い込んでいた。
「お父さん」「お母さん」というのにためらいがあった。
幼いながら、彼の心に疑念と不安が生まれる。
「自分は、望まれて生まれてきたんだろうか?」
「自分の居場所は、どこなんだろうか?」
ようやく両親になじんできたにも関わらず、漱石が14歳のとき、母が他界。
彼には、甘えることが許されなかった。
漱石が塩原姓から夏目姓に復籍したのは、21歳のときだった。
養父、塩原昌之助は、出世していく漱石をことあるごとに頼り、金の無心をした。
その関係は漱石が亡くなる7年前、42歳まで続いた。
育ててくれた養父に感謝したい、でも、彼が求めるのは金だけ。
そこには己の欲望の追及だけがあり、道徳心のかけらもない。
早々に両親に捨てられたと思った漱石には、絶対的に信じる者がいなくなった。
夏目漱石は孤独を知っている。
もし漱石がそんな評論を聞いたら、こう答えるかもしれない。
「気安く孤独なんて言うんじゃありません。生まれてすぐにいらないと言われた人間の気持ちがわかりますか?私は決めました。物心ついて、すぐに決めました。必要とされる人間になろう。お前が生まれてくれてよかったと、言ってもらえる人間になろう」
夏目漱石は、優秀だった。
小学校でも中学校でも、誰もが認める成績をおさめた。
特に英語は、ずば抜けていた。
創立間もない、東京帝国大学の英文科に入学。
すぐに特待生に選ばれ、『方丈記』の英訳を任されたりした。
研究者としての道、教師としての道。
将来は約束されたかに見えた。
しかし、彼を生涯苦しめたものがあった。
病。体の弱さ。
特に、神経衰弱と、胃の弱さは死ぬまで彼から離れなかった。
イギリス留学時代のうつ病。
ひとに会うことができない。
部屋にこもる。友人は去っていった。
胃潰瘍は常にそこにあった。よく血を吐いた。
初めての京都旅行のさなかにも、胃が激しく痛み、倒れた。
病は彼に、こんな思いを植え付けた。
「オレは、そうそうは長生きできそうもない」。
そんな彼が行きついた境地。それは…。
『前後を切断せよ。みだりに過去に執着するなかれ。いたずらに将来に希望を持つな。大事なことは、これだけだ。すなわち…。満身の力をこめて現在に働け!すべてに満身の力を注ぐこと、それ以外に、生きる道はない』
夏目漱石には、必死な覚悟があった。
生きる意味を見出したい。それもできるだけ早く。
病に苦しめられた彼には、今日一日生きていられることが奇跡だった。
東京帝国大学教授の道もあった。
でも、彼は教師としての自分に違和感を抱いていた。
「教育者として偉くなりえるような資格は私には最初から欠けていました。私にはどうにも窮屈で恐れ入りました」
文学とは何か、小説とは何なのか、悩みに悩んだ末に彼が書いた初めての作品は、『吾輩は猫である』。
自分の神経衰弱のリハビリのために書き始めた物語。
漱石は、ユーモアを重んじた。
ひとを楽しませること。誰かに笑ってもらうこと。
そのことで、彼は初めてつながることができた。
世間と、人生と、自分がここにいる意味と。
職業作家として独立するときも、面白い小説を書くことをいちばんに心がけた。
二足の草鞋をやめ、小説一本でやろうと決意して、最初の作品。
京都で体験した、保津川の川下りを書こうと思った。
舟の船頭さんはこう言った。
「左に寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」
ぎいぎいと櫂(かい)がなる。波しぶきが飛んでくる。
舟から見る岸辺の緑は、平和だった。
この川下りの楽しさは、山をのぼった厳しさに裏打ちされていた。
朝日新聞に連載する『虞美人草』に、漱石は満身の力をこめた。
何度も血を吐き、神経を病んだ。
それでも、前に進むことをやめなかった。
とにかく読者を楽しませること、そしてそこに自分の思いをこめること。
書いて書いて、また書いた。
まるで舟が岸壁や激流をすり抜けながら進むように。
彼は言う。
「君、弱い事を言ってはいけない。僕も弱い男だが、弱いなりに死ぬまでやるのである」
夏目漱石は知っていた。
自分がそう長く生きられないことを。
だからこそ、満身の力で、自らの舟をこぎ続けた。
その手を一度も緩めることなく。
小説『虞美人草』には、こんな一節がある。
「余計なことを言わずに歩いていれば、自然と山の上に出るさ」
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悲しみのない世界 / 坂本慎太郎
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