第六十四話自分で枠を決めない
野口遵(のぐち・したがう)。
彼は晩年、病の床で自らの死期を悟ったとき、側近を枕もとに呼んでこう言ったと言われています。
「おい、オレの全財産は、どれくらいある?」
側近が意図をはかりかねていると、気が短い彼はこう続けました。
「古い考えだと思うかもしれんがなあ、オレの人生の最終目的は、徳に報いること、恩をお返しすることなんだ。自分は生涯を通じて化学工業に全精力を傾け、今日を築いた。だから、化学工業の明日に、未来に、全財産を捧げたい。全部、寄付してくれ」
「全部って、全部ですか?」
側近が驚いて尋ねると、
「ああ、全額だ。それからオレは一番最初の礎を朝鮮半島で成すことができた。朝鮮にも奨学資金として役立ててくれ、いいな?頼んだぞ」。
現在の金額でおよそ300億を後進の発展のために捧げました。
その言葉からおよそ4年後。彼は72歳の生涯を閉じました。
彼の遺志を継いで設立された公益財団法人野口研究所は、旧加賀藩の屋敷があった東京都板橋区にその本拠を構えています。
去年創立75周年を迎えたこの団体は数多くの研究者の背中を押してきました。
また2年前には野口遵賞も設けられ、研究の助成金の一助として化学工業の発展に少なからず寄与しています。
彼の想いは時代を越え、研究者たちに勇気を与え、パイオニアスピリットを応援しているのです。
金沢の風土が育んだ、挑戦する心。
風雲児、野口遵が人生で大切にした、yes!とは?
日本の化学工業の礎を築き、チッソ、旭化成、積水化学工業の実質的な創業者と言われている風雲児、野口遵は、1873年、明治6年に石川県金沢市で生まれた。
父は加賀藩士。でも、貧しかった。
野口は才気煥発。ひとよりも常に先を考える利発な子供だった。
幼くして母に抱かれ東京に上京。前田家の長屋に住まう。
東京師範学校を経て、東京府中学に入学したが真面目に授業を聴くタイプではなかった。
やんちゃで喧嘩っぱやい。
ついには学校を追い出されてしまう。
みんなと同じように座っているのが苦痛で仕方ない。
ただ学ぶことは嫌いではなかった。
第一高等中学に入り、東京帝国工科大学電気科、今の東大工学部電気工学科を優秀な成績で卒業した。
当時の通例で言えばかなりのエリート。
官庁や財閥系企業に就職して順風満帆な生活を約束される立場にあった。
しかし、野口はその道を断った。
大きな傘の下に入るのではなく、たとえ雨に打たれようとも、自分の傘を創りたい。
誰かの枠に収まるのではなく、自分の枠は自分で決めたい。
その思いだけを持って、彼は社会という大海原に船出した。
化学工業の父と称される野口遵は、帝国工科大学卒業後、大企業には就職せず、福島に向かった。
在学中卒論のために度々訪れていた福島県郡山市の発電所におもむく。
彼の心をつかんで離さなかったのは、新しいエネルギーの創造だった。
世界は電気の発明により、新設エネルギーの開発に沸いていた。
火力、水力発電、炭化石灰岩・カーバイト。
野口は、郡山電燈の技師長として赴任。
郡山紡績沼上発電所の建設に関わった。
これは猪苗代湖と安積疏水(あさかそすい)の落差を利用した水力発電だった。
この発電により、紡績工場は目覚ましい発展を遂げた。
エジソンが、世界初の点灯電燈事業を、ニューヨークで開始したのは、野口が9歳のときだった。
電気に興味を持つ。さらに電気をつくるおおもとこそが、これからの日本を支えることに、野口は早くから気づいていた。
彼の関心は、カーバイトに向いた。
天然のものから電気をつくること。原価はかからず、ビジネスになる。
ドイツの電機メーカー・シーメンス社の日本支社に入社。
炭化石灰岩、カーバイトの研究にあけくれた。
シーメンスはカーバイトを原料に空気中の窒素を吸収し、エネルギーにする事業を展開していた。
彼は思った。この特許をとれば、世界にうって出られる。
彼は道なき道を進むことを臆さない。たった一度の人生。
誰かの造った道をただ歩くのは、つまらない。
実業家、野口遵は、大学を卒業してからちょうど10年後、独立。
曾木電機(そぎでんき)を立ち上げた。
彼の狙いは、カーバイトの特許をドイツのシーメンス社から買い取ることだった。
空気中の窒素を原料とする窒素肥料にはカーバイトは欠かせない。明治36年には仙台で日本初のカーバイト生産が始まっていた。
この特許さえとれば・・・。当時、特許という考え方は斬新だった。
空気中に無尽蔵にある原価のかからない窒素。それをエネルギーに変えられるビジネスは、財閥系企業にも魅力的だった。
野口の相手は、三井と古河という大財閥企業。
特許を持っているフランク・カローのもとを訪ねた。
彼が開発した窒素肥料の工業化にはシーメンス社が多額の資金援助をおこなっていた。
三井、古河両財閥が、フランク・カローに話を持ち掛ける。
まともにぶつかっては勝ち目はない。
そのとき、野口は、シーメンス社に勤めていたときの技師長や事務所長のことを思い出した。
彼らなら口添えしてくれるかもしれない。
ドイツに飛び、二人を訪ねる。
彼らは快く間に入ることを承諾してくれた。
野口には、ひとを喜ばす才があった。
彼の宴席はいつも笑いに包まれる。彼といるとみんな笑顔になり、気持ちよく酔うことができた。
彼はビール以外口にしなかったという。
「自分が強い酒でつぶれてしまっては、ひとを楽しませることはできない」
野口遵は、特許を買い取ることに成功した。
特許をビジネスモデルにした初の日本人と言われている。
彼は自分で枠を決めなかった。ひとにも決めさせることはなかった。
どんな相手でも、徒手空拳(としゅくうけん)で挑む。
そんなとき、彼はいつも清々しい顔をしていたという。
日本のために、誰かのために、精一杯尽くし、いただいた恩を、ひとつ残らずお返しして去る。
そんな潔さこそ、彼の流儀だった。
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