第四十六話弱きもののために
岩崎の生家は、決して裕福なものではありませんでした。
藁ぶきの平屋。
建坪も30坪あまりの質素なものです。
その土蔵の鬼瓦に、岩崎家の家紋、重ね三階菱が刻まれています。
これがのちの三菱のマーク、スリーダイヤの原型と言われています。
家の庭には、石が置いてあります。
いくつかの石が並べられた様は、まるで日本列島。
これは、岩崎弥太郎が、いつか日本で一番になるという青雲の志を持って、置いたのだと言われています。
井ノ口村の近くの妙見山にある星神社。
弥太郎は、この苔むした石段を登り、何度も神社にお参りしたといいます。
彼はこの神社に落書きをしたそうです。
そこには、こう書かれていました。
『我、今回、江戸に遊学す。我、志を得ずんば、再び帰りて、この山を登らじ』
立身出世を夢見て、江戸に出向く前に、夢を叶えることができなければ、ここにはもう来ないという彼の強い決意が垣間見られます。
庭の日本列島と、神社の落書き。
人里離れた村の手に負えない風雲児が、自らの中に培った人生のyes!とは?
岩崎弥太郎は、1835年、天保5年に、土佐の国、現在の高知県安芸市に生まれた。
土佐の温暖な空気、開かれた海、人情に篤い風土が、彼のおおらかな人格を造った。
父、弥次郎は、地下浪人。
地下浪人とは、武士の身分を売ってしまった、半農半士。
農民のように農業で生計を立てる身分の低い存在だった。
弥太郎が生まれたとき、おぎゃあと泣く声が、あまりに大きくて家族が驚いたと言われている。
産婆は、こうつぶやいた。
「こがな太い声で泣くややこは、あていは初めて見たぞね。これは、きっと天下をとるような、大物になろうね」
弥太郎が生まれた井ノ口村は、古くは安芸氏に統括され、戦国時代末期に長曾我部家が治めた。
長曾我部家は、関ケ原で敗戦側についたことで土佐を追われ、代わりに遠州掛川から、山内一豊が統治した。
岩崎家は、もともと甲斐の国、武田の末裔だと言われている。
武田家は、三階菱が家紋だった。
岩崎家は、安芸氏、長曾我部氏に仕えたので、山内氏が入国したとき、山に逃げた。
のちに山内氏にも仕えるようになるが、身分は低かった。
ただ、弥太郎の母、美和は気位が高かった。もともと医者の家系。
ただ優しさと乱世を生き抜く強さを兼ね備えていた。
弥太郎には、母の忘れられないエピソードがあった。
彼は、そこから学ぶことになる。
「後輩や弱きものには、惜しみなく財を分け与えよ」
三菱財閥の創業者、海運業の風雲児、岩崎弥太郎には、忘れられない母の思い出があった。
ある歳の暮れ。近所の主婦が、物乞いにやってくる。
「このままでは、歳を越せねえ。おねげえだ。用立てて、くれんかの?」
それを聞いて、弥太郎の母、美和は怒った。
「お断りするがで。どがな状況じゃき、備えを怠らんが、妻の役目」。
その女は泣いて帰った。
しかし、美和は先回りして、その女の家の障子の破れ穴から銭を投げた。
その銭も岩崎家にとってはなけなしのお金だった。
母は弥太郎に言った。
「ウチもつらい。でも、もっとつらいひとが世の中にはいるもんだよ。後輩や弱きものに、優しくしなさい」
岩崎弥太郎は、生涯を通じて、部下や後輩にお金を払わすことがなかったという。
母の凛とした気品、清貧は、彼の心に人と生きていく術を教えた。
母、美和は、手の付けられないほどのワンパクな弥太郎の、心の奥底に光る優しさを見抜いていた。
「この子には、ひとの気持ちを慮る、土佐の風のような暖かさがある」
三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎は、11歳のときに勉学の才能を見出される。
ただのやんちゃ坊主だった彼に、転機が訪れる。
文才がある。漢詩をあやつった。
14歳のときには、藩主・山内氏にその才を認められた。
21歳で江戸に行くことを決意。
両親は、持っていた田畑を売り払い、資金を作った。
母・美和は言った。
「大きな男になりなさい」
江戸に遊学。彼は志を果たすまでは故郷には戻らぬと誓った。
しかし、父が酒の席で暴徒とやり合い、瀕死の状態になったという知らせを受ける。
しかも、牢獄に入るという。
「いいがかりだ!」
弥太郎は、急きょ、ふるさとに戻る。
父の無実を訴えた。
どんなに自分の立場が悪くなろうとも、彼は引かなかった。
「いざとなったら、いつだって命をくれてやる!」
その覚悟こそが、彼の強さの源だった。
結局、父の冤罪を主張したことで、彼も牢屋の主になった。
転んでも只では起きないのも、弥太郎の底力。
獄中で知り合った商人から、算術や商法、商いの全てを学んだ。
後藤象二郎の恩を受けて、1873年、二隻の船を手にする。
そのたった二隻の払い下げの船を元手に、海運業を始めた。
「三菱商会」と名付けたその会社は、瞬く間に、世間を圧倒する。
岩崎家の重ね三階菱と、土佐を治める山内家の三つ葉の家紋を合わせ、のちにスリーダイヤと呼ばれるマークを作った。
弥太郎が、会社を創設したときに決めたことがあった。
どこの生まれだろうが、どんな家柄だろうが、そんなことは関係ない。
全ての社員に、商人としての教育を施す。
差別を嫌った。それはかつて自分が受けてきたものだった。
そしていつも母の心得が、胸にあった。
「万人を愛しなさい。弱きものの、味方でありなさい」
弥太郎は、日本で最初にボーナスを支給したものと言われている。
企業の利益は、働くひとに還元されるべきだ。
彼は、土佐、高知に生まれ、大海を夢見て船出した。
そして、志を遂げて、故郷に錦を飾った。
彼の心にあったのは、おそらくただひとつ。
「強いものこそ、優しくなれる」
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