第百六十六話今やれることは何かを考える
全国各地でさまざまな催しが企画され、日本が県ではなく藩として成り立っていた時代に思いをはせることができます。
滋賀県、すなわち近江の国は、京の都に近く、交通の要だったこともあり、戦国武将たちにとって天下をとるために大切な場所でした。
琵琶湖周辺には今も、戦乱の世をしのぶ観光地が数多く点在しています。
近江の国にあって、ひときわ大きな存在感を放っていた彦根藩。
その15代藩主が、日本の開国を断行した立役者、幕末の風雲児、井伊直弼です。
放映中の大河ドラマでも独特の雰囲気をもって登場する譜代大名は、安政の大獄に象徴されるように、独裁者のイメージがあります。
「井伊の赤鬼」と恐れられた彼は、実際、冷徹で非情な男だったのでしょうか。
彼は、こんな言葉を残しています。
『人は上なるも下なるも、楽しむ心がなくては、一日も世を渡ることは難しい』。
井伊直弼は、十四男として生まれ、母親は正妻ではなく側室でした。
そのため、幼い頃から良い扱いをされなかったのですが、彼は不遇を嘆くこともなく、国学や茶道を学び、教養と芸術で自らを高めていったのです。
特に茶道の分野では茶人として、大いに才能を発揮しました。
今置かれている立場で最良のことに尽力する。
彼の一生は、その思いで貫かれていました。
桜田門外の変で、志半ばで散った井伊直弼が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
幕末の大老・井伊直弼は、1815年、彦根藩、現在の滋賀県彦根市に生まれた。
彦根藩は財政的にも安定し、藩の学校も設立され、文武に意識の高い活気ある地域だった。
能舞台が造られたり、景勝を誇る庭園が整備されたり、文化芸術にも力を入れていた。
ただ、直弼が生まれた頃から徐々に藩の財政は悪化していき、藩内に倹約令が通達された。
直弼は十四男。しかも、母は側室。
直系としての扱いからはほど遠かったが、美しく教養のある母と江戸屋敷で暮らした。
父も高齢で隠居の身。直弼は両親に可愛がられた。
しかし、5歳のときに母が急死。
乳母に甘えるも、母が恋しかった。
17歳で、今度は父が他界。
彦根に戻った直弼を待っていたのは、予想以上の冷遇だった。
「部屋住」と呼ばれる、未来のない世捨て人の巣窟に放り込まれる。
直弼は、自らの住まいを「埋木舎」と名付けた。
二度と花が咲くことのない、土に埋もれた木。
17歳から32歳までの実に15年間、彼は埋もれた木として過ごした。
その年月は彼に、生きることの真髄を教えてくれた。
井伊直弼は、「部屋住」時代の15年間、己を高めるために教養と芸術、剣術の稽古に励んだ。
ただ、その道を極めれば極めるほど、虚しさも味わう。
どんなに頑張っても、誰にも評価されず、世の人を幸せにすることもできない。
せっかく身に着けた居合や馬術の技も、披露する場所がなかった。
ある日の夕暮れ、直弼はひとり、琵琶湖のほとりに立った。
秋の風が湖面を吹き抜けていく。虚しい。無性にさみしい。
自分はいったい、なんのために生まれてきたのか。
今すぐこの命がなくなっても、誰が困るだろう…。
悲しむ親さえ、いない…。
ふと、風に揺れる柳の木が目に入った。
しなやかな枝は、風に立ち向かうのではなく、ただ揺れるばかり。
全く、情けない木だ…そう思いながら、気がついた。
いちばん強い木は、柳なのかもしれない。
どんな風にも逆らうことなく、結局、自分を保っている。
井伊直弼は、思った。そうか…オレは、柳になればいいんだ。
井伊直弼は、いっそ仏門に入ろうと思った。
一期一会を茶道から学び、諸行無常を戦から知った。
心に宇宙を持つ、禅に興味を示す。
もはや、何かを外に向かって求めることはやめよう…。
そんなとき、兄が亡くなり、いきなり彦根藩藩主の候補になった。
32歳。まさか自分に声がかかるとは思ってもみなかった。
35歳で藩主になる。
彦根藩の財政は、逼迫(ひっぱく)していた。
しかも先代の藩主は自分に都合のいい家臣ばかりを登用していて、藩の未来に真剣に向き合うムードがなかった。
直弼は、まず街を歩き、民の生活をじっくり観察した。
彼らが何に困り、何を求めているかを考えた。
教育にも力を入れる。
我が身をかえりみても、学問がなければ乗り切れなかった局面が多々あった。
虚しいとき、辛いとき、和歌を詠むことで昇華され、茶道の世界に癒された。
人間を支えるのは、実学だけではない。
かすかな風にも揺れる柳のように、繊細な心遣いこそ、ひとを救い、自らを高める。
優秀な人材は、若くても、生まれが名家でなくても、積極的に登用した。
やがて井伊直弼は、名君と呼ばれるようになっていった。
のちの日米修好通商条約の調印や開国など、日本が大きく変わる場面でも、彼の流儀は生涯変わらなかった。
今、自分にやれることは何か。
ただ、それを無心でやるだけだ。
【ON AIR LIST】
やわらかい月 / 山崎まさよし
Ain't No Sunshine / Bill Withers
Little Willow / Paul McCartney
I'll Be Around / The Spinners
閉じる