第八十二話続けることの凄み
彼女の名は、秋山ちえ子。
大正6年に仙台に生まれた彼女は、99歳で亡くなる最期までラジオを愛し、ラジオでつながったひとたちを大切にしました。
スタジオには、愛用のストップウォッチを必ず持参。
時間どおりにキチンと終わるように気を使いつつ、もちろん、ひとことひとことに、思いを、魂を込めました。
番組の最後には、必ずこの言葉。
「それではみなさん、ごきげんよう」。
秋山は、ラジオの放送をこう表現しました。
「私は、毎日毎日、一粒の種をまくつもりでやっています。毎日まくことが、何より大事。毎日まけば、一粒が、やがて二粒になり、三粒になり、やがて芽を出して、美しい花が咲くでしょう」。
その言葉どおり、彼女が毎年夏に放送し続けた朗読『かわいそうなぞう』は、多くのひとの心を打ちました。
彼女のまいた種は、海外まで届いたのです。
シンディ・ローパーが、秋山の思いに共感して、英語版を朗読してCDにしたのです。
シンディ・ローパーは、こうメッセージをしるしました。
「『かわいそうなぞう』を読んだとき、私は、戦争にはたくさんの哀しみがあるのだということを、とてもとても感じました。戦争は、ほんとうに多くの哀しみに満ちているのです。この本が、世代を超え、若い人にも読み継がれることで、平和のありがたさを忘れないことを願っています」。
秋山ちえ子の願いは、毎年、そして毎日続けることで、たくさんの花を咲かせていったのです。
そんな彼女が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
昨年4月、99歳で亡くなった秋山ちえ子は、放送ジャーナリストの草分け的な存在だった。
1917年、大正6年1月12日、仙台に生まれた。
小学6年生のとき、愛宕山にある放送局で、クラスみんなでそろって唱歌を歌ったのが、最初の放送とのかかわりだった。
マイクの前で歌う、しゃべる。このマイクの向こうに、たくさんの聴いているひとがいる。
それが不思議であり、謎であり、魅力的だった。
その後、東京女子高等師範学校、現在のお茶の水女子大学を卒業。
ろうあ学校の教師になった。
学校の先輩に北条静という女性がいて、「放送研究会」に誘われた。
自作自演の童話のラジオ放送をやった。心が躍った。
5年間、教師をしたが、結婚して夫の赴任先、中国に渡る。
彼女は振り返る。
「確かに、そこで放送との縁が切れてしまいましたが、もしそこで日本で放送に携わっていたら、戦争に関わる放送をしていたでしょう。お国のために戦ってください!というような。戦後、軍に協力したひとは追放でしたから、むしろ中国に行ったことで、私は放送の世界に居続けることができたのです」。
彼女は、まさに放送に選ばれたひとだった。
ひとには皆、そのひと自身がたどるべき道がある。
日々を大切に生きてさえいたら、一度それても、必ず戻る。
ジャーナリストで評論家の秋山ちえ子は、戦後、1948年10月から放送を始めた。
ラジオ局は連合軍の占領下。
GHQによって、CIE、すなわち民間情報教育局が設置され、ラジオ課の指導を受け、放送が行われた。
秋山は、「婦人の時間」という番組を担当した。
当時、日本の女性、家庭の主婦は、社会性が乏しいと言われ、主婦を代表して、日本中をまわりレポートすることになった。
「私が見たこと聞いたこと」というコーナー。
丹那トンネルの取り換え工事の現場を見に行く。
ネズミを退治した長野県の村を取材する。
7年間で300カ所にも及ぶ場所に出向いた。
放送の2時間前に、検閲を受けた。
あるとき、呼び出される。
「学校の給食で、6年生と1年生のコッペパンの大きさが一緒なのは違うのではないか」という記事に赤字が入った。
「これはGHQの占領政策を批判するものだ!この記事はそういう主旨で書いたのか?!」
しばらく目をつけられた。
秋山は、幼い頃から、困っているひと、弱い立場のひとの気持ちに寄り添って生きてきた。
その温かいまなざし、繊細な視線が、放送で共感を生み、やがて彼女を一流のジャーナリストに成長させていった。
ジャーナリストで評論家の秋山ちえ子には、生涯を通じて大切にしていた大きな二つの柱があった。
ひとつは、弱いもの、困っている人たちのために尽くすということ。
そしてもうひとつが、戦争のない世界をつくりたいということ。
世界中を100カ所くらい訪ねたが、普通の人々にとって最も悲惨なのが、戦争だと思った。
自分にできることは何か?彼女は自問した。
戦後まもなく出版された『愛の学校・二年生』の中に、『かわいそうなぞう』という作品があった。
太平洋戦争の終わりごろ、動物園のゾウが3頭、餓死させられた話だ。
書いたのは、土家由岐雄。
秋山は、この話に感銘を受け、8月15日にラジオ番組内で朗読した。
リスナーから問い合わせが殺到した。
「その本がほしい!その本はどこで買えますか?」
本は絶版になっていた。
秋山は作者・土家の許可を得て、小さなパンフレットにしてリスナーに送った。
次の年にはある出版社が単行本にした。
毎年、8月15日に朗読する。
続けること、その大切さを誰より知っていた。
本はあっという間に100刷りを越え、100万部を突破。
作者の土家は、8月15日が過ぎると、秋山にお礼状を送った。
土家は、95歳で亡くなる前年も、こうしたためた。
「秋山ちえ子様 私はもう目が見えなくなりましたけれども、心の目で字を書くことはできます。15日の放送を正座して聴いて、お礼状を書きます」。
秋山は、ラジオの力を信じていた。
ラジオには、決して爆発的に大きな事を起こす力はないかもしれない。
でも、毎日毎日、毎年毎年、続けることで、種は芽を出し、やがて花を咲かせる。
結果を急いではいけない。大切なものこそ、時間をかける。
そうして彼女はストップウォッチを片手にスタジオに入り続けた。
今日という一日に、一粒の種をまくために。
【ON AIR LIST】
True Colors / Cyndi Lauper
Yesterday Once More / Carpenters
経る時 / 松任谷由実
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