第三話想いは、届く
『軽井沢ショー記念礼拝堂』。
イギリス人宣教師、アレクサンダー・クロフト・ショーが建てた、軽井沢最初の教会です。
深い緑の香り。木々の下には、色鮮やかな苔が夜露を受けて、光っています。
深呼吸するだけで、癒され、浄化されたような気分になる、独特の空気感。小川のせせらぎも聴こえてきます。
足をさらにすすめると、木造二階建ての素朴な建物が姿を現します。
『ショーハウス記念館』。
軽井沢の父と言われるショーが別荘として利用した家。
さまざまな経緯をたどり、別荘第一号が建てられたこの地に、移築、復元されました。
石碑には、こう刻まれています。
「尊敬する大執事アレクサンダー・クロフト・ショー氏を記念して。
師は、夏の居住者として初めて村民と共に暮らし、彼らの永年の誠実な友人であった。軽井沢の村民がこの石碑を建てた」。
ここに暮すひとびとに愛され、受け入れられた初めての外国人。
彼がいなければ、西欧と日本が融合した今の軽井沢はなかったのかもしれません。
別荘地という位置づけも、彼が根付かせたと言っても過言ではありません。
ショーは軽井沢をこう呼びました。
『屋根のない病院』。
清廉な風が、木の葉を、ささやかに揺らしていきました。
アレクサンダー・クロフト・ショーは、1846年、カナダのトロントに生まれた。
祖国は、スコットランド。
24歳で司祭になった。三年後、宣教師として海を渡った。
横浜に着く。慶応義塾の近くに滞在し、やがて福沢諭吉に見出された。彼の子供達の家庭教師や、慶応義塾で英語を教えた。
キリスト教を伝え、祈るためにやってきたのに、先生をやっている自分。どこか、本国の仲間に後ろめたさがあった。
なんとか地道に布教をした。
何人か、日本人の洗礼にもたずさわった。
その中には、軽井沢を愛した政治家、尾崎行雄もいた。
ショーは、体が丈夫なわけではなかった。リウマチに苦しんだ。
おまけに日本の夏は、堪えた。
蒸し暑い。風の湿り気に、息をするのが苦しくなった。
40歳の頃、友人のディクソンと旅の計画を立てた。
歩いて、春の日本海を目指す。
ディクソンは大学教授で、夏目漱石は教え子だった。
まだ外国人が自由に日本を行き来できない時代。
ひっそりと、ひとめを避けて、歩く。
ひとりより、二人のほうが、心強かった。
それは、長野県と群馬県の県境、和美峠に差し掛かったときだった。
遠く望む、浅間山。その圧倒的な存在感。そして地平には、どこまでも続く、湿原が見えた。
吹き抜ける風の、心地よさ。体の細胞が息を吹き返す。
思わず深呼吸した。懐かしい。そうだ、この香りは、祖父のいたスコットランドだ。
アレクサンダー・クロフト・ショーが、初めて軽井沢に出会った瞬間だった。
風は、彼に告げた。
「yes、ようこそ。あなたのイエスは、ここにいます」
アレクサンダー・クロフト・ショー。
彼は軽井沢に、強く魅かれた。
春に出会い、夏にはもう、別荘を借りていた。
別荘族第一号。家族とともに、森に触れ、静寂の中で身を清め、祈った。
当時の軽井沢は、鉄道や新道ができて、宿場町としての役割を終えようとしていた。
このまま、かくれ里になっていくのか、そんな分岐点。
ショーは、この地の素晴らしさを知人、友人に伝えた。
この場所で、布教活動をしたいと思った。
最初は、村人も、とまどった。突然の外国人。
いきなりのキリスト教。でも、ショーは、思った。
想いは、伝わる。世界中、どこに行き、どこに暮らし、誰と出会い、誰に関わっても、想いさえあれば、きっと伝わる。
祈りは、想い。つながるということ。触れ合うということ。
『ひとは、心で動く』。
ショーは、地元のひとたちに、パンの焼き方を教えた。
水泳を、教えた。自分が知っている西洋の良さを、笑顔で教えた。
でもいちばん伝えたいことは、この地の素晴らしさだった。
そこに暮すひとが見逃している、素晴らしさだった。
くじけそうになると、いつも風が背中を押してくれた。
日本に来て初めて自分に『yes』と言ってくれた、軽井沢の風。
以来、彼は亡くなるまでの、16年間あまり、軽井沢を愛し、軽井沢を、日本中どこを探してもない、別格な街にした。
別荘地、リゾート地として、息を吹き返したこの土地は、今も西欧の文化を独自に取り入れ、伝統を守りつつ、発展し続けている。
『軽井沢ショー記念礼拝堂』の前のショーの銅像。
彼は、誇りに思っているだろう。
讃辞が刻まれた石碑が、村人から贈られたことを。
どんなに権威や名誉を持っているひとより、この場所に暮す村人に受け入れられたことが、うれしかった。
今も同じように、風が吹く。
浅間山から、湿原を抜ける、スコットランドの風が、吹く。
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