第百四十八話動くことで、己を知る
鎖国時代の日本に、ひとりのドイツ人がやってきました。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。
シーボルトは、長崎の出島にあったオランダ商館の医師として、西洋医学の実践や啓蒙を行い、日本の近代化のために貢献しました。
さらに彼は日本の植物学、民俗学、地理学にも興味を持ち、地道な研究を重ね、日本人が成しえなかった学術的資料の構築に尽力したのです。
彼はジャカルタで軍医として働いていたときに、オランダ領東インドの総督に、こう言われました。
「あらたに、日本に向けて出発する、オランダ使節団があるんだが、どうだろう、もしキミが望むのであれば、随行してみる気はないか?長崎の商館の医者として駐在し、さらにはキミがやりたいと言っていた自然科学の研究にも従事できると思うが」
シーボルトは、二つ返事で快諾しました。
「ぜひ、行かせてください!」
でも、船旅は過酷で、命を落とす危険性も決して低くはありません。
それでも、彼は異国に飛びだしたかったのです。
東シナ海で嵐に遭遇。
海に落ちないように、甲板に自分の体をしばりつけて風雨をしのいでいるときも、「大丈夫!大丈夫!オレには、オレを守ってくれる神様がいる」そう信じて乗り切りました。
荒海を経て見えてきた島国を、彼はこんなふうに日記に書いています。
『あざやかな緑色の丘。耕された山の尾根が前景を彩り、後方には青みがかった山の頂が、くっきりと輪郭を描いている。海岸にそそり立つ岩壁は朝陽を浴びて、時間とともに、その色を変えていく。実にうっとりとする眺めだ…』
命の危険もかえりみず、そこまでして異国を目指したのは、どうしてだったのでしょうか?
シーボルトが、波乱の生涯でつかんだ、明日へのyes!とは?
鎖国時代の日本にやってきた医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、1796年、神聖ローマ帝国のヴェルツブルク、現在のドイツ、バイエルン州に生まれた。
家は医学界の名門。フォンという貴族の称号が名前に記されている。祖父も父もヴェルツブルク大学医学部の医師だった。
シーボルトがわずか1歳のとき、父が突然、この世を去った。
31歳だった。さらに彼の兄と姉も、相次いで亡くなる。
シーボルトは、母方の叔父に預けられた。
物心ついた頃から、身内の死と名門の誇りという二つの空気にさらされた。
幼い頃から頭脳明晰だったシーボルトは、いち早く疑念をいだいた。
「どうして大切なひとがいなくなっていくんだろう。ボクのせいかな。ボクがこの世に生まれてきたせいかな」
家には、常に父の写真が飾られ、シーボルトを見ていた。
母は、シーボルトをこんなふうに叱った。
「あなたのお父さんは立派なひとだったのよ。だからあなたも誇らしく、気高くありなさい」
父と比べられるのは、きつかった。
そこにいない父。対話も相談もできない。
「そんな成績じゃ、お父さんが哀しむわよ」と言われると、ひどく落ち込んだ。
この世に必要がない人間だと言われているような気がした。
一生懸命、勉強した。成績はあがり、学校ではいつもトップになった。
誇らしく、気高く。この教えは、シーボルトをやがて傲慢にしていくことになる。
傲慢さは、ひとを最も孤独にしていく毒薬である。
シーボルトは大学に進学するとき、叔父や母への反発心から一度は、哲学科に入学する。
しかし、結局家族一同に反対され、医学を志すことになる。
悔しかったが、大学に通わせてもらうには、それしか道はない。
ただ、解剖学の教授、デリンガー先生の家に下宿したことが、のちの人生を変えた。
デリンガー先生は、医学だけではなく、植物学にも長けていた。
庭に咲き誇る、花たち。
近くの森を散策しながら話してくれる、さまざまな種類の植物たちの物語。
そこには、貴族も名門もプライドも傲慢もなかった。
植物たちは、ただ陽を浴び、水をとり、お互いが助け合い、尊重し合い、共生しあっていた。
デリンガー先生は言った。
「花の名前を覚えてごらん。きっと世界が拡がっていくから」。
夢中になった。
植物学は、薬草にも通じる。
名もなき草花たちに、彼は、こう語られているように感じた。
「この世に必要がない命は、ひとつもない」
一度も会うことのなかった父といつも比べられてきたシーボルトは、動くことで、その呪縛から解き放たれようとした。
父ができなかったことをやればやるほど、心が自由に羽ばたくようになった。
開業医の道を断ち、オランダ領東インド陸軍病院の軍医になる。
植物学の研究も続け、東洋への憧れを抱く。
27歳、ジャカルタに赴任しているときにつかんだ日本への切符。
動くことで自分の可能性を拡げ、父とは違う生き方をすすむ覚悟はできていた。
「たとえ東シナ海に沈んだとしても後悔はしない。留まるということは、退化するということ。オレは、動くことで道を切り開く」
当時、日本に入国が許されたのは、オランダ人だけだった。
「おまえのオランダ語は、変だ」
日本人の通訳に指摘された。
「オランダの山岳地出身なんだ。だから訛っているだけだ」
そういって切り抜けた。
オランダに山岳地がないことを、日本人は誰も知らなかった。
シーボルトの外科医としての腕は確かだった。
長崎では名医が来たと評判になった。
たくさんの患者を診ているうちに、シーボルトの心に変化が起きた。
「ひとに感謝されるというのは、こんなにも幸福な気持ちになるものなんだな」
患者のひとりに、遊女だった「お滝」がいた。
貴族の称号、医学界名門のプライドは、どこかに消えていた。
お滝を、心から愛した。
彼女の名前を、紫陽花の学名につける。
学会から非難を浴びても気にしなかった。
動くことで自分が見える。
「オレは、こんなふうにひとを愛することができる人間なんだ」
彼は、紫陽花を「オタクサ」と呼び、世界中にひろめた。
長崎市の市の花は、紫陽花。
彼は、動くことで生きた証を残した。
【ON AIR LIST】
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