第二十九話自分を掘りだす
明治から大正、昭和と、数々の作家、芸術家がこの地に足を踏み入れ、愛しました。
古くは、森鴎外や正岡子規が、歩いて、あるいは馬車がひく鉄道で碓氷峠を越えてきました。
1893年、明治26年に電気機関車が走るようになると、さらに多くの文人がやってきました。
徳富蘆花、尾崎紅葉、田山花袋。そしてその中に、志賀直哉もいました。
彼は、最初は旅人としてこの地を訪ね、のちに、友人だった室生犀星の別荘を訪ねるようになりました。
室生犀星の旧宅は、今も記念館として軽井沢に残っています。
1951年。昭和26年の8月2日。こんな記述が残っています。
68歳の志賀直哉が、軽井沢にいる62歳の室生犀星のもとへやってきました。
2人は、およそ7年ぶりの再会です。
志賀直哉が軽井沢駅に降り立つと、
「やあ、志賀さん、こっちです、こっち」
迎えにきたのは、日本を代表する洋画家、63歳の梅原龍三郎です。
「おお、すまないねえ、わざわざ」
「いえ、お荷物、持ちましょう」
梅原は1913年にパリから戻って以来、白樺派の文人と親交をあたためてきました。
「いやあ、列車の中で偶然、評論家の長與善郎と会ってねえ、しゃべりすぎてノドがかれたよ」
志賀が話しました。
室生犀星は、志賀直哉の交遊関係の広さ、友人との快活なやりとりをうらやましく思っていたと言います。
文壇では常に賞賛と糾弾を同時に受けた、文豪、志賀直哉。
彼の心にいつもあった、人生のyesとは?
作家、志賀直哉は、1883年、宮城県石巻市に生まれた。
父は、明治の財界の重鎮。志賀が生まれたときは、銀行員で石巻支店に勤務していた。
2歳のときに東京に移るが、祖母に育てられる。
祖母は、彼にとって、最大にして最後の味方だった。
28歳のときに書いた小説『祖母の為に』は、こんなふうに始まる。
総ての友達が自分に敵意を持っている…と、こう思い込む事が私にはよくある。
それが不健全な一時的の気分からだとは知りながら、若し誰かを訪ねでもすれば屹度(きっと)脅迫されるように、私は不快なことを云ったり、したりしてしまう。
堪えられない孤独と腹立たしさを感じて別れて来る。
と、必ず、祖母を思う。
「何と云っても、もう祖母だけだ」と思う。
祖母を慕う一方で、志賀は父との齟齬(そご)を深めていく。
裕福な家に守られながら、学習院初等科から高校まで進み、東京帝国大学英文科に入学するも、中退。
定職を持たずに、小説を書き始める。
24歳のとき、家で働く女中との結婚を反対され、父との亀裂は決定的なものになった。
作家、志賀直哉は12歳の時に、母を亡くす。
母が亡くなる前のことを、彼は、こんなふうに記している。
『もう一時間で死ぬのか、そうそのとき思ったということは、なぜかその後も思い出された』。
彼は十分に甘えられなかった母を思い、と同時に、祖母に溺愛されて十分に自分を愛せなかった母への同情も、感じていた。
父は再婚し、志賀と11歳しか離れていない、新しい母ができた。存外、継母には、好感を持った。
むしろ、父を疎んじるきっかけになった。
志賀直哉は、18歳のときから内村鑑三に師事し、キリスト教を学んだ。
足尾銅山の鉱毒事件に興味を持ったが、開発に祖父が関わっていたことで、父に深入りすることを反対され、最初の不和が生じた。
この父親との対立、埋められない溝こそが、皮肉なことに志賀直哉の小説世界をより高みへと押し上げていく。
24歳で結婚を反対されてのち、志賀は、精神を病むほど追い込まれてしまう。
作家、志賀直哉が書いた『剃刀』『范の犯罪』『児を盗む話』などは、いずれも被害妄想に満ちている。
自分は誰かを殺してしまうのではないか、自分は犯罪をおかすのではないか、自分は自ら命を絶つのではないか。
そんな精神状態の危うさを、抑制のきいた文体で見事に表現した。
彼の中に、父との確執が大きく影響していた。
彼は書いている。
「今から見れば、自身も病的であった。近頃は段々、病的ということに興味が薄くなったが、病的ということは飛躍であり、正気では感ぜられないもの、また、正気では現せないものを、この飛躍で表す場合があるので、それを否定してはいない」
小説に書くことで、乗り越えた。
ひたすら言葉を置くことで、飛躍した。
志賀直哉は、心底、作家だった。
やがて彼は父との亀裂から、自我を見つめ、こんな境地に到達する。
「私は、自分を真ん中から愛するようになった。自分は自分の愛すべきところを、美しいところを、またエライところを、一生かかって掘り出さねばならぬ。人間は、少なくとも自分にあるものを、一生かかって掘り出せばいいのである」
晩年、志賀直哉は、たくさんの友人に囲まれた。
あの30代の病的なまでに自我を追いつめる行為こそが、彼を解放し、他と交わる慈しみを得た。
軽井沢で仲間と集う時間。彼に優しい風が吹き抜けた。
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