第二十七話自然に映るもの
そして湯川のせせらぎの音。ここには、静謐(せいひつ)な風が吹いています。
星野温泉の入口あたりに、ある詩が刻まれた石碑があります。
「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。たびゆくはさびしかりけり」
『落葉松』というその詩を書いたのは、日本の近代文学に多大な影響を与えた詩人、北原白秋。
彼は、1921年の夏、星野温泉で開かれた自由教育夏季講習会に講師として参加するために、軽井沢にやってきました。
そこで見た落葉松の芽吹きにひどく感動した白秋は、歌を詠んだのです。
『落葉松』の最後は、こんな4行で締めくくられます。
「世の中よ、あわれなりけり。常なけどうれしかりけり。
山川に山がわの音、からまつにからまつのかぜ」
白秋は、この詩に関して次のように注釈をつけています。
「読者よ、これらは声に出して歌うべき、きわのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂いを匂いとせよ」
すなわち、彼はこう言いたかったのでしょう。
「いいかい、くれぐれも表面的なリズムに惑わされてはいけないよ。大事なのは、底辺に流れるボクの心なんだ。声に出さなくていい。まずは感じてくれ。ボクの哀しさ、人生に対峙する姿勢を」
落葉松の道を、ゆっくり歩く白秋の背中が見えます。
彼は、この歌に何をたくしたのでしょうか?
彼が人生からつかみとった、yesとは?
詩人、北原白秋は、童謡作家としても広く知られている。
『からたちの花』、『待ちぼうけ』、『この道』、『トンボの眼玉』。
また、学校の校歌や、民謡も作詞した。
彼のシンプルで深みのある言葉は、今もなお、日本人の心に沁みわたっている。
白秋は、1885年熊本県に生まれた後、すぐに福岡県の柳川に移る。以来、柳川の風景は彼の心にしっかりと刻まれた。
町の水路、舟から見る白壁の蔵。吹き渡る湿った風。
北原家は、江戸時代からの名家だった。長男が病死したため、次男の白秋は、たいそう可愛がられた。小さい頃は、「トンカ・ジョン(大きいぼっちゃん)」と呼ばれた。
白秋に本を読んでくれた叔父さんがいた。幼い心に想像の種が、しっかりと植えられた。
中学に入ると、すぐに短歌や詩を書くようになる。
雑誌『文庫』に、投稿する。担当編集者から絶賛された。
ただ、学校ではいつも落第点。ついには親に内緒で退学してしまう。
早稲田大学の予科に入学。上京してますます詩作に励む。
若山牧水と親交を持つ。
新鋭の天才として、文壇に認められていく。
20代の白秋は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い。
詩集を刊行し、多くの詩人らと新しい風を起こした。
そんな白秋に思わぬ落とし穴が、待っていた。
それは、ある人妻との、スキャンダルだった。
順風満帆に思えた北原白秋の人生が、大きく変わったのは、松下俊子とのスキャンダルだった。
当時暮していた東京原宿の家の隣にいた女性、俊子と恋に落ちた。
彼女は夫と別居中の人妻だった。夫から姦通罪で訴えられる。せっかく築いた詩人としての評判は地に落ちる。
世間は冷たかった。
「オレは、いったい何をやっているんだ」
後悔しても遅かった。彼を優しく受け入れてくれたはずの落葉松の道は、行けば行くほど険しくなり、ひとがいなくなる。
30代を機に、作風まで変わっていく。
才気煥発、言葉を思うがままに扱ってきた作家は、シンプルで単色の色合いを好むようになった。
俊子と結婚に至るが、結局、離婚してしまう。
ただ、詩を書くことはやめなかった。
世の無常、ひとの情けのはかなさを痛切に感じながら、言葉を紡ぎ続けた。
萩原朔太郎の家を訪れたとき、彼はぽつりと言った。
「なんとも、この道は、さびしい道だよ」
失意のどん底にあった北原白秋は、軽井沢を訪れた。
星野温泉での講習会。講師として呼ばれた。
芸術の教育的側面を大事にしていた彼が選ばれた。
軽井沢の夏は、優しかった。
吹き渡る湿った風に、ふるさと柳川を思った。落葉松の林を抜ける道を歩いているときだった。
ただ静かに立っている木々たちの生命力を感じた。
彼らは教えてくれた。
「おまえは、何者だ?ちゃんと生きているのか?」
忘れていた感覚がよみがえる。万物に宿る命、自然に映る神。
「素朴で混じり気のない、子供の頃の感覚を、もう一度取り戻せ、キミたちはそう言っているんだな」
『落葉松』という詩には、哲学がある。思想がある。
それはきっと、白秋が味わった苦渋の時間がもたらした、小さなyesだった。
「ほんとうに大切なものは、全部、自然に映っているんだ」
彼は、もう迷わなかった。
「からまつの林を出でて、からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、また細く道はつづけり」
子供の目線に大人の哀しさが混じり、彼にしか書けない世界が実を結ぶ。
「からまつの林を出でて、浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。からまつのまたその上に」
からまつの上に見える浅間山が、彼に未来を示した。
風が細い道を、流れていった。
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