第九十話逆境の先にあるもの
その雅楽の演奏者だった、金谷善一郎は、日光を訪れていたひとりの外国人を自宅に泊めました。
泊まるところがない外国人が途方にくれていたからです。
まだまだ外国人観光客に慣れていなかった日本人。
でも、金谷は困っているひとを見過ごすことができませんでした。
この外国人こそ、のちに「ヘボン式ローマ字」で世界中に知れ渡るヘボン博士だったのです。
ヘボン博士は、金谷に言いました。
「これからもっとたくさんの外国人観光客が、日本に、この日光にやってきます。ぜひ、外国人も泊まれる宿泊施設をつくってください」。
こうして、金谷が開業したのが、『日光金谷ホテル』です。
金谷ホテルには、たくさんの著名人が宿泊しました。
アインシュタイン、ヘレン・ケラー、そして、建築家・フランク・ロイド・ライト。
もちろん、日本の要人も泊まりました。
1908年11月10日。宿帳に記載されているひとの名は、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)。
旧五千円札にも肖像画が印刷された賢人です。
教育者にして、思想家。農業経済学の研究も行っていた重鎮。
彼は『武士道』の精神を尊び、世界に侍魂を紹介しました。
国際連盟の事務次長も務めたグローバルな視点は、今も、私達に日本の未来を示唆してくれます。
そんな新渡戸稲造が自らの人生でつかんだ、逆境に打ち勝つための、明日へのyes!とは?
教育者で思想家の新渡戸稲造は、1862年、現在の岩手県盛岡市に生まれた。
新渡戸家は、祖父のフロンティア・スピリットと、父親の不断の努力で、中級の武士の位を維持していた。
少年時代の新渡戸は、わんぱくで通っていた。
野山を駆け回り、天真爛漫に笑う。
事態が一変したのは、父親が47歳の若さでこの世を去ったとき。過労だった。
哀しむ間もなく、東京の叔父のもとに預けられることになる。
新渡戸は9歳だった。
兄と二人、盛岡から東京まで籠に乗る。当時は、10日以上かかる長旅だった。
籠をかつぐ二人が速く走ると、兄弟がはしゃいだ。
それにつられて、籠はどんどん先に行く。
他の一行からはぐれてしまうほどの山奥まで来てしまうと、急に籠をかついでいた二人が、新渡戸兄弟ににじり寄る。
「金をよこせ!おいらたちは、ずいぶんと走った!」
兄は怖がって泣いている。でも、新渡戸は毅然と向き合い、こう言った。
「たくさん謝礼をしたいのですが、僕たちはお金を持っていません。あとから、身内のものがやってきます。あなたがたが頑張ってくださったお礼は、きちんと差し上げるつもりです」。
言葉通り、遅れてやってきたお供に、お金を払うよう、幼い新渡戸は命じた。
籠をかつぐ者たちは、恐れ入って、そのあとは決して乱暴な口をきかなくなった。
新渡戸がなぜ、教育に目を向けたのか。
それは、幼いときこそ、人間の素地を決める。
彼はのちに語った。
「始めの一歩は、道の半ばにあたる。何事も最初の一歩が大事である。花は芽にあり、人の性格は3歳児から始まる。今年の事業は、今日の決心から起こる」。
東京に出てきた幼い新渡戸稲造は、叔父の期待を一身に受けた。
「おまえは、とんでもなく偉い人間になるか、大悪党になるか、二つにひとつだ」。
祖父にも言われた。
ただ、通っている共慣義塾の授業が退屈で仕方ない。
いまひとつ、勉学に集中できないでいた。
ある日、新渡戸が街を歩いていると、皮の手袋が安く売られていた。
兄のためにと思い、それを購入して家に帰る。
その手袋を見た叔父は、新渡戸を怒った。
「おまえの小遣いで、皮の手袋が買えるわけがない!どうせ、盗んだんだろう!学問もしないで、ふらふらしているから、こういうことをしでかすんだ!」
新渡戸は思った。
「叔父に誤解を与えてしまったのは、やはり自分がいけない。日ごろ、ちゃんと勉学にいそしんでいれば、叔父だって疑わずにいたに違いない。普段の行いこそ、そのひとの評価を決める。誤解されたと被害者ぶっても始まらない。常に問題は、自分の中にある。」
新渡戸は、気を散らすことなく、勉強に向き合うことにした。
「これからは、グローバルな時代になる。英語を身につけよう」。
彼の英語はずば抜けていて、アメリカ、フィラデルフィアで行われた「アメリカ独立百年祭」で彼の書いた英作文が展示された。
新渡戸稲造は、学生時代、友人に金を貸した。
彼が、家庭の事情で、授業料を払えなくなったからだ。
でも、今度は自分のお金が底をつく。
授業料を払えない。
学校側は、食堂に授業料を払えない者の名前を張り出した。
それを見た新渡戸は、自分の名前と友人の名前を黒く塗りつぶした。
それに賛同した学生も、みんなで黒く消した。
学校側は、首謀者の新渡戸を呼んだ。叔父も呼ばれた。
「叔父さんからも、きつく叱ってください」
そう学校側の責任者に言われると、叔父はこう言った。
「おまえは間違ったことをしていない。正しいものは正しい。悪いものは悪い。まわりに流されず、正当に評価する、それが武士道だ。おまえは、悪くない」。
新渡戸は感動した。武士道の精神に、心をうたれた。
のちに新渡戸稲造が書いたその名も『武士道』は、日本で最初の世界的なベストセラーになった。
成人してからの彼の人生は、決して順調なものではなかった。
開拓者精神で札幌農学校に行き、キリスト教に傾倒し、洗礼を受けた頃、目をわずらった。
心を病む。母の死に目にもあえなかった。
逆境は、彼を押しつぶそうと、重ね重ねやってくる。
でも、新渡戸稲造には、ある信念があった。
「いかに苦しいことがあっても、ヤケになるのは短慮の極みである。逆境にある人は常に、『もう少しだ』と言って進むといい。やがて、必ず前途に光がさしてくる」。
辛い、苦しい、そんなときこそ、「もう少しだ。なにくそ、負けるか、もう少しだ」と、足を一歩だけ前に置く。
そうすれば、きっと光はやってくる。
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