第百十四話一秒の退屈もいらない!
映画の舞台は、東京オリンピックが終わったあとの、2021年の新宿。
少年院あがりの主人公と、吃音(きつおん)で対人恐怖症の男が、共にボクシングの世界にのめり込んでいく話には、現代の日本が抱える闇が赤裸々に描かれていました。
この原作を書いたのは、寺山修司。
寺山が、1966年に書いた唯一の長編小説です。
50年以上の時を経て、自らの小説が映画化されたと知ったら、空の上の彼はどう思ったでしょうか?
昭和の石川啄木、言葉の錬金術師など、数々の異名をとった、時代の風雲児。
歌人にして、劇作家、カルメン・マキの『時には母のない子のように』という名曲の作詞も手掛け、演劇実験室「天井桟敷」を主宰した、稀代の芸術家、寺山修司。
今年、開館20周年を迎える彼の記念館は、青森県三沢市にあります。
館内には、寺山の足跡を知る、手紙や台本、舞台のセット、残したフィルムなどが展示されていますが、建物自体がまるで彼の作品のようです。
彼は、弘前で生まれましたが、三沢での幼児体験が強烈だったと振り返っています。
「もしかしたら私は、憎むほど、故郷を愛していたのかもしれない」
そう語ったように、寺山にとって青森という土地は、強く彼の精神性を育みました。
父を早くに亡くし、母とも離れて暮らさなくてはならなかった幼年時代。
見える風景は、荒野にも似ていたのかもしれません。
一秒の退屈も許さず、休むことなく駆け抜けた47年の生涯。
寺山修司が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
歌人にして劇作家の寺山修司は、1935年、青森県弘前市に生まれた。
本籍は、三沢市。生まれた日は12月10日なのに、戸籍上は1月10日になっている。
自らの出生について母に問いただすと、母はこう答えた。
「おまえは、走っている汽車の中で生まれたから、出生地があいまいなんだ」
寺山の父は、青森の警察官。転勤が多い。
寺山が生まれたときも、異動のさなかであったという。
青森の冬は厳しく、暖房のない蒸気機関車。汽車で生まれたはずはない。
でも、彼は「僕はね、走っている汽車で生まれたんだ」というフレーズを気に入った。
留まることを知らない旺盛な創作欲は、確かに、走っている汽車のようだった。
寺山の父方の祖父は、薩摩藩出身。でも、会津藩と組んで新政府と闘った。
その反体制は、寺山の父に受け継がれる。
父は公安の刑事になるが、共産主義者を助けた。
のちに、助けてもらった活動家が、寺山のもとにやってきて、涙ながらにお礼を述べたという。
「あなたのお父さんに、命を救ってもらったんです」。
寺山の母方の祖父は、無声映画を持って全国を回る映画興行師だった。
体制におもねることを良しとしない、そして、芸術を生業とする。
寺山のそんな二つの傾向は、二人の祖父から受け継いだものかもしれない。
幼い時から才気煥発、利発な子どもだった。
6歳のとき、父が戦争に召集。青森空襲で焼け出され、三沢市の叔父のもとに母と逃げた。
そこで、父の戦死の知らせを受ける。
寺山は、父の愛を知ることができず、失った。
三沢の荒涼とした冬の海。彼はのちに、こう綴った。
「なみだは、にんげんの作る いちばん小さな海です」
寺山修司の母は、躾(しつけ)に厳しかった。
いつも正座。木刀の素振りを毎日やらせた。
整理整頓ができていないと、体罰もじさない。
折檻は激しく、寺山の叫び声が周囲に聴こえることもあったという。
母は、三沢の進駐軍ベースキャンプの中の図書館で働くことにした。
米軍将校の口ききで、米軍没収の家を安く譲り受けた。
小学校の同級生は、そんな母のことを揶揄し、侮辱した。
「おまえの母ちゃんは、アメリカのこれか!」
寺山は、その旧友を無言で殴った。
先生はひどく怒り、母に事の顛末を伝えた。
母は我が息子を叱るどころか、抱きしめて、こう言った。
「修ちゃん、ありがとう」。
それでなくても、転校生だった寺山はいじめられた。
鬼ごっこでは、鬼しかやらせてもらえない。
ただ、誰よりも勉強ができたことで、一目置かれるようになっていく。
やがて、彼は不遜な態度をとるようになる。
担任の教師は通信簿に書いた。
「各教科、成績優秀なれど、外的活動を好まず、自尊心高く、授業態度も悪し」。
周りに虚勢を張っても、寺山の心は、さみしさの渦に巻き込まれるだけだった。
中学に入ると、母は九州の米軍キャンプに住み込むことになり、彼は青森市内の親戚に預けられることになった。
こうして父ばかりか、母までも失ってしまう。
そんな寺山を支えたもの、それは、言葉だった。
言葉を紡ぐことで、自分をどうにか保つことができた。
寺山修司の人生は、言葉と格闘する人生だったと言っても過言ではないだろう。
俳句や短歌を詠み、ラジオドラマのシナリオや戯曲を書き、作詞やノンフィクションでも世に認められた。
ジャンルを問わない活躍。でも、そのどれもが「言葉」だった。
母が自分のもとを去ってから、彼は詩作に励んだ。
文芸部に入り、詩や童話を書いた。
特に俳句にのめりこんだ。当時、彼はこんな言葉を口にした。
「いっちょう、言葉を地獄にかけてやるか!」
やがて、早稲田大学文学部に入学。
短歌で賞をとり、文壇に認められかけた矢先、彼は病気になる。
混合性腎臓炎からネフローゼを起こし、長期入院を余儀なくされた。
母ひとりで息子を大学にやるのは容易ではなかったはずだ。
寺山は大学を辞める覚悟をしたが、母は身を粉にして働き、学費を払い続けた。
この入院が、彼を変えた。
不遜な心は影をひそめ、ベッドから天井を眺めつつ、生きたい、生きたいと願った。
古今東西の本を読み、学んだ。
時間はいくらでもあったが、一秒たりとも無駄にできない。
ひとは死を身近に感じたとき初めて、生きる時間の短さに愕然とする。
ひととの出会いや語らいも、より愛おしいと感じるようになった。
見舞ってくれた谷川俊太郎とは、生涯の友となった。
大学の同級生、山田太一とは手紙のやりとりが続いた。
さよならだけが人生だと、悟った少年時代。
でも、だからこそ、一秒も退屈があってはならないと、走り続けた。
亡くなる寸前まで、映画を撮っていた。
ガルシア・マルケスの『百年の孤独』。のちにタイトルは『さらば箱舟』になった。
寝椅子を持ち込んで、撮影した。
大切にしたのは、言葉、言葉、言葉。
人生には、言葉にでもしないと耐えられないことがある。
片時も休まなかった人生が生み出した数々の言葉は、今も、ひとびとの胸に届いている。
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