第百三十一話悔しい思いを糧にする
彼の記念館は、兵庫県宝塚市にあります。
60歳で生涯を閉じた、その5年後に開館しました。
外観は、まるで彼の漫画に出てきそうなヨーロッパの古いお城。
15万枚にも及ぶ作品の歴史を、垣間見ることができます。
手塚治虫が生まれたのは、現在の大阪府豊中市ですが、ほどなく宝塚に転居。
幼少期から青年期の最も多感な時期を、豊かな自然と文化的で洗練された雰囲気が共存する不思議な街で過ごすことになったのです。
宝塚は、明治時代には温泉地。大正、昭和時代には、歌劇場や遊園地、植物園などリゾート施設が充実した最先端の街として発展してきました。
この地は、手塚に二つの大きな宝物を与えました。
ひとつは、ペンネームにもつけられている「虫」。
家の裏の雑木林は、虫の宝庫でした。
小学5年生のとき見た、昆虫図鑑に心をわしづかみにされた手塚少年は、先生も驚くほど、虫を細かく丁寧に描き、「これはまるで写真じゃないか」と言われました。
そしてもうひとつは、宝塚歌劇。母親が大の宝塚ファンだったので、幼い頃から多くのステージを見たのです。
ひとたび幕が開けば、そこは、めくるめく想像の世界。
子ども心に、彼は癒され、高揚し、やがて、感動の源を知りたいと思いました。
虫を注意深く観察し、描くこと。フィクションの世界に身をゆだねること。
そのどちらも、彼の過酷な人生が裏打ちしていました。
執拗なまでにいじめられ、バカにされ、それでも世界に名立たる漫画家になった手塚治虫。彼がつかんだ人生のyes!とは?
漫画の神様・手塚治虫は、今から90年前、1928年に生まれた。
父は大企業のサラリーマン。母は厳格な軍人の娘。
この二人の趣味や性格が、手塚を漫画に導く。
父は当時では珍しいほどの趣味人で、映画や漫画が好き、自身も俳句を詠んだ。
母は幼い手塚に、声真似、身振り手振りを交えて、毎晩読み聞かせを欠かさなかった。
5歳のときには、手塚はすでに漫画を画いたという。
白いノートを与えても、あっという間に鉛筆で描き切ってしまう。
手塚が次のノートをせがむ。母は、彼が寝たあとで、一生懸命消しゴムでそれらを消して、翌朝そのノートを渡した。
小学校は名門校に合格。母が東京出身で関西弁が話せない。
しかも、背も低く、体も弱い。視力が悪く、大きな眼鏡をかけていた。
いじめられた。徹底的に、いじめられた。
虫みたいだと笑われる。
「ガジャボイ頭をふりたてて、今日も眼鏡がやってきた。見えました。見えました。60メートルの眼鏡」
という侮蔑の歌を歌われる。
ガジャボイとは、天然パーマに固い髪の毛のガジャガジャ頭のボーイの略。
ちなみにこの髪型は、鉄腕アトムの髪型の原型になる。
このいじめっ子の歌を、手塚は生涯忘れなかった。
悔しい。なんでこんなに、いじめられるのか。
いじめっ子から逃れるために通学ルートを変えても、彼らは追いかけてくる。逃げても逃げても、ダメだ。
泣いて帰ると、いつも母はひとこと、こう言った。
「我慢、しなさい」
手塚治虫へのいじめは、中学になるとおさまるどころか激しさを増した。
服を脱がされ、全裸で廊下に放り出される。
ガキ大将だけではない。クラスの優秀な生徒も、手塚を排除、揶揄した。
泣いて帰ると、母は決まってこう訊いた。
「今日は、何回泣かされたの?」
「えっと…8回泣かされました」
母は、続けてこう言った。
「堪忍、しなさい。我慢、しなさい」
我慢する、それは手塚の人生訓になった。
この世は、理不尽なことばかりだ。
ちょっとしたことで、昨日までの友は敵になり、今日までの幸福は、明日崩れ去る。
そんなとき、どう生きるか。
我慢。それしかない。ただ、悔しさは忘れない。
いつかこの悔しさを糧に、みんなを見返してみせる。
見返すために、どうしたらいいか。
手塚少年は、考えた。
「ボクは、運動も苦手、勉強だって優秀なやつはいっぱいいる。誰にも負けないもの、ボクがボクを誇りに思えることはなんだろう」
ある作文の授業で、遠足について書くという課題があった。
そこで、手塚はこう書いた。
「山奥に行くと、クマがガォ~っと出てきました。急いで逃げると、まるで天国のような花畑に出たのです」
クラスメートは、野次を飛ばす。
「クマなんか、いなかった!花畑なんか、なかった!」
でも、手塚の作文は圧倒的に面白かった。みんなが引き込まれた。
結果、作文を読み終えると、拍手がわいた。
「これかもしれない…ボクは、物語をつくるのがうまいのかもしれない」
手塚治虫は、授業中も漫画を画いた。お話をつくった。
休み時間に、彼の周りにクラスメートが集まる。行列ができる。
「続きを聞かせてくれよ!」
「ボクを主人公に漫画を画いてくれよ!」
自分をいじめていたガキ大将まで、その列に並んだ。
先生も、手塚の漫画を没収するが、あまりの面白さに舌を巻いて、こう尋ねた。
「で、続きはどうなんだ?」
手塚治虫は、思った。
「そうか、案外、世の中は単純なのかもしれない。不得意なことに心を痛める前に、得意なことを伸ばせばいい。まずは、自分が得意なことを見つけること。なければ、得意なことを身につけること。人生を幸せに過ごすのも過ごせないのも、自分次第なんだ」
そんな彼の気持ちを支えたのは、悔しさだった。
手塚は、大御所になり、漫画家長者番付一位になっても、後輩に優秀な人材が現れると、全身全霊で嫉妬した。
悔しい、こんな漫画、自分には画けない。
そう思うと、体中の血が沸き立った。
石ノ森章太郎が、「ボクが書いた漫画を読んでください」と仮面ライダーを持ってきたとき、セリフのない漫画に才能を感じた。
目の前で破り捨てる。
「こんなの漫画じゃないよ」
後に、石ノ森に謝った。
「君に、嫉妬した」。
悔しさが、15万枚書かせた。
我慢が、彼を世界に押し上げた。
漫画家・手塚治虫は、いつも画いた。
電車でも、温泉宿でも、廊下でも、駅の待合室でも。
そうして築いたものが、今、多くの若者を鼓舞し、励まし続けている。
「いいんだ、泣いたっていいんだ、ただ、その悔しさを忘れるな!」
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