第五十九話逆境は変革の時
石橋正二郎。
ブリヂストンの創業者であり、当時輸入に頼っていたタイヤ産業をゼロから起こし、世界一のメーカーにまで押し上げたひとです。
そこに至るまでの経緯は、決して順風満帆ではありませんでした。
しかし、彼は不屈の心で、常に挑戦を続けたのです。
晩年、こんなエピソードがあります。
入院していた石橋のもとを、気の置けない友人にして共に戦う同志、ソニー会長の井深大が見舞いにやってきました。
「やあ、元気そうじゃないか」
「全く、ざまはない。こんな姿を見せたくなかったよ」
やがて、井深はゴルフの話を始めました。
「スライスが治らんのだよ。どうしても右に曲がっちまう。それがどうにも悔しくてね」
井深は技術屋らしく、自らのスイングを分析し、「ビデオドクター」なるフォーム矯正器を開発した話を続ける。
「スイングだけじゃない、日本人に合うドライバーについても研究した。あれだな、4番ウッドのシャフトの長さが日本人にはイチバン合う」
そこで、彼はひとつ呼吸を置いて、
「ボールについても分析したんだが、キミんとこのボール、あれはレントゲンで見ると芯が少しずれているよ、はははは」
石橋は、そんな発言を悔しがり、すぐに担当者を呼びつけ、調べさせました。井深の言うとおりでした。
「いくらかかってもいい。真っすぐ飛ぶ、世界一のボールを開発しなさい!」
これがきっかけで、ブリヂストンはゴルフボールの世界市場でトップを争うまでのぼりつめたのです。
石橋は思いました。
「井深は、見舞いに商品開発のヒントと奮起する力をくれたんだ」。
どんなときも挑戦を忘れなかった実業家、石橋正二郎の明日へのyesとは?
実業家、石橋正二郎は、1889年、福岡県久留米市に生まれた。
父、徳次郎の家業は仕立て屋。着物や襦袢(じゅばん)を扱った。
実直に仕事をする父の後ろ姿を、正二郎は覚えている。
一方で、豪放磊落な祖父や、叔父の商売へのあくなき挑戦も、正二郎の心をつかんだ。
特に叔父の口癖は、幼い彼の心に沁みた。
「いいか、正二郎、人間は世の中のために働かねばならぬ。それが何より大切なんだ」
叔父は早くから水産こそ日本の中心産業になると思い、東京に出て起業した。
しかし、失敗。何度も散財を繰り返す。
それでも、ただ守るだけの父の消極的な商売より、攻める叔父に共感した。
「オレは、ちっぽけな仕立て屋で終わるのは嫌だ」
そんな青雲の志を後押しするように、久留米商業学校を出た正二郎にチャンスがめぐってきた。
父の代わりに兄と家業をまかされたのだ。
しかも兄は徴兵され、戦地に向かう。
実質、ひとりで切り盛りすることになった。
やがて彼は、種類が多いゆえに雑多な業務が増える仕立て屋の商売に疑問を持ち、業務自体を変える決断をする。
足袋の製造を専業にすることを考えた。
大量生産をして、職人の技術力のみに頼るのを避けた。
多くの従業員を雇うため、従来の徒弟制(とていせい)に風穴を開けた。
いわゆる経営の近代化。
しかし、このやり方は父の逆鱗に触れることになった。
新しい挑戦が受け入れられるのは、いつも、時間が経ってからだ。
実業家、石橋正二郎は、久留米商業学校時代にある重要なことを学んだ。
それは、商業道徳。商売にも、道徳と学問が必要であるということ。
道徳と学問がない商売は、やがてやせ細り、消えてなくなる。
従業員への給与制度を見直す。売り上げの一割を適正利潤として、これを基準にコストや価格の切り下げに努め、安くて良い商品をつくる。
その仕組みづくりをどう作るか、正二郎は、必死に学んだ。
17歳の新社長は、ある日、父に呼ばれた。
「正二郎!こんバカたれが!おまいはなんば考えとっとか!丁稚に金ば払うアホがどこにおるとか?!ただで使いよるけん、もうけがでるとよ。丁稚に金ば払うたら、いい気になって、つけあがるばっかになるとがわからんか?!」
工場の外にまで響く父の怒号。
しかし、正二郎は臆することなく、父を無言で見返した。
仕立て屋は、朝から晩まで徒弟を使い、縫わせ、店頭だけで販売する小さな商い。ここから改革せねば、世の中のためになる仕事ができない。
しかも彼らは無給で休日もない。
これでは疲弊して、効率も悪くなる。
「私は、一生を賭けて実業をやる覚悟です。やる以上は全国、いや世界に発展するような事業がやりたい」
正二郎は足袋を専門にすることで打って出る道を選択した。
大きな船が動けば、大きな波風が立つ。
実業家、石橋正二郎は、足袋専門業を成功させ、全国に販路を伸ばした。
22歳のとき、出張で東京に出て、あるものを見て愕然とした。
自動車だった。当時は「煙の出ない陸蒸気」、「馬のない馬車」と呼ばれ、なぜ動くのか不思議がられた。
線路のない道を自在に走ることができる自動車はやがて物流や交通手段の主役になる。
だが、日本には自動車やタイヤをつくる技術がなかった。
欧米からの高い輸入品ばかり。
正二郎は、ここに商機を見た。
しかし世は、1931年。世界的な金融不安のど真ん中。
それでも彼はタイヤメーカーを創業した。
開発に命を賭ける。だが、製造した十万本ものタイヤはまだまだ未熟で、返品の嵐だった。
工場の火災、戦争。世の中の荒波に翻弄されながら、彼は常にある信念を持っていた。
逆境は変革の時。不況は商機、起死回生の最大のチャンスである!
そんな中、常に従業員の待遇には心を配った。
関東大震災のときは、会社の復興の前に、従業員の住まいの確保に奔走した。
自分ひとりでできない大きなことを成し遂げるためには、同士が必要だ。久留米商業学校時代に学んだ商業道徳が、常に心にあった。
盤石な経営体制と不屈の挑戦魂。
思えばそれは、実直な父と、挑戦を続けた祖父や叔父の思いの融合だったのかもしれない。
正二郎は、生涯現役を貫き、病床にあっても、新しい道を探し、前に進むことを忘れなかった。
ゴム王と言われた、世界に名を馳せる事業家、石橋正二郎。
1976年、87歳で亡くなるまで事業計画書は手元から離さなかった。
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