第二百七十八話誰にもできないことをやる
巨匠マイク・リー監督のこの映画は、世界的に評価が高く、アカデミー賞で4部門にノミネート。
ターナーを演じた名優ティモシー・スポールは、カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞しました。
風景画の歴史を大きく変え、のちのモネやセザンヌという印象派の画家にも多大な影響を与えたターナーに、ティモシー・スポールの風貌はあまりにも似ていると評判になりました。
ずんぐりむっくりな体型。
身なりにかまわず、言葉は、明瞭に話さない。
いつもひとを疑うようにギロッと相手を見る。
生涯、家庭を持つことをせず、私生活は孤独で静か。
多くの謎に包まれていました。
その一方で、絵を画くことへの執念は、すさまじいものがありました。
もはや伝説と化している、逸話があります。
嵐の海に翻弄される船を描くために、実際に嵐の中、乗組員に頼み、4時間もの間、自分の体をマストに縛り付けてもらったと言われています。
また、『雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道』は絵画史上、初めて、速度を描いたものとして名高い作品ですが、機関車の動きを体感するために、雨の中、彼はずぶ濡れになって、一日中、機関車が行き過ぎるのを見ていました。
「どうしてキミはそこまでするんだい?」と画商が尋ねると、彼はシニカルに笑ってこう答えたと言います。
「他のひとが画くものと一緒じゃ、つまらないからだよ」
ターナーのパレットは、ほとんど黄色であふれていたと言います。
夕陽、朝陽、あらゆる景色を、さまざまな黄色のバリエーションで表現したのは、風景にいつも光を見ていたからでしょうか。
反対に、緑色を嫌い、ほとんど使いませんでした。
やることが極端で、独特。
そこにこそ、彼の独自性が育まれ、後世に受け継がれる作品を残せたヒントがあるのではないでしょうか。
ひとがやらないことをやるのは、エネルギーがいる。
でも冒険こそ進歩をうながす、唯一の方法なのです。
風景画家の巨匠、ターナーが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
イギリスの風景画家・ターナーは、1775年、ロンドン、コヴェント・ガーデンに生まれた。
街は市場や商店であふれ、劇場もあった。
ターナーの父は、理髪店を営み、繁盛していた。
3年後には妹も生まれ、家族4人、幸せに暮らしていた。
しかし、ターナーが8歳のとき、妹が病で亡くなる。
もともと精神が不安定だった母は、幼い我が子の死を受け止めきれず、病院に入院。
二度と退院することなく、この世を去った。
ターナーは、平穏な日常生活があっけなく崩れ去ることを、身をもって知る。
と同時に、家族を持つことの恐ろしさを感じてしまった。
「きっとまた、不吉なことが起こるに違いない。だったら、最初からひとりがいい」
ターナーは、テムズ川を西にさかのぼったブレントフォードにいる親戚に預けられた。
孤独だった。
知り合いも、友だちもいない。
彼はただ、一日中、テムズ川を眺めていた。
眺めるだけではなく、やがてスケッチを始めた。
道行くひとに「ぼうや、うまいねえ」と褒められると嬉しくなり、また、画いた。
やがて、絵を画くために、テムズ川に行くようになる。
飽きなかった。
光がはじける午後、雨に打たれる夕暮れ。
一度として同じ景色がないことを、知った。
ターナーは、13歳になると、ようやく父のもとに帰ることができた。
父は我が息子の絵の才能に気がついた。
理髪店に、我が子の風景画を飾って、売る。
ターナーは親戚の家に預けられているとき、土地の歴史を表す風景版画に色をつける仕事を任されていた。
イギリス各地の風景や歴史が、彼の脳裏に刻まれていく。
細かい道や木々に色を塗っていく作業は、孤独を忘れ、楽しかった。
ロンドンにいた建築画専門のトマス・モールトンに、素描を習う。
14歳で、当時イギリス唯一の正式な美術学校だったロイヤル・アカデミーに入学。
うれしかった。誇らしかった。
画家としての将来は約束されたと思う。
建築画家としての需要があり、パトロンたちは、自分の屋敷に壮麗な遺跡や歴史上の建築物の絵を飾りたがった。
うまく画ける。
自分は、誰よりもうまい…。
でも、なぜか彼が魅かれるものは、古びたレンガの壁、むきだしの窓、薄汚れた市場の女、生臭くて、よどんでいる水たまりだった。
特に、川に立ち込める、いっさいを覆ってしまう霧には、ひときわ心が揺さぶられた。
なぜだろう…整った世界、悠然とそびえる柱より、崩れ去るもの、うつろうものを画きたくなる…。
そうして彼は水彩を捨て、油絵に身をゆだねていく。
ターナーは、風景をただ切り取るだけの絵画に興味を失う。
躍動感、速さ、時間の流れ…。
見ているひとを巻き込むエネルギーやドラマを、キャンバスに叩きつけたくなった。
嵐、雪崩や洪水。
天変地異がモチーフになっていく。
でも、イタリアのヴェネチアを旅しているとき、突然、足がとまった。
目の前の圧倒的な風景。
日没。
すさまじくも、優美だった。
黄色が赤に変わり、海を浸食していく。
燃え上がるように鮮やかな輝きは世界を変えていく。
「ここに、あった…」
ターナーは、思わずつぶやく。
幼い頃、何度も体感した景色。
テムズ川に落ちる夕陽を、空が真っ暗になるまで見ていた。
モチーフを、外に求めることはない。
ちゃんと心の中にあった。
そっとしまっておいた、あの光の勝利。
きらびやかで哀しい、一日の終焉の儀式。
「私は、これが画きたくて、画家になったんだ…」
ひとと違うものを画いて、自分に辿り着いた。
風景画家の巨匠、ターナーは、夕闇の中にようやく自分の影を見た。
【ON AIR LIST】
ピアノ・ソナタ第8番 悲愴より第2楽章 / ベートーヴェン(作曲)、横山幸雄(ピアノ)
JUST FOR A LITTLE WHILE / Malik Malo
YELLOW / Coldplay
ターナーの汽罐車 / 山下達郎
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