第三百三十四話情けを極める
長谷川伸(はせがわ・しん)。
代表作『瞼の母』は、浪曲、講談、歌舞伎など、数多く上演され、町から町へと渡り歩く渡世人の義理と人情、母への情愛は、観客の涙を誘いました。
日ノ出町、大岡川のたもとには、彼の石碑があります。
歌謡浪曲にもなった戯曲『一本刀土俵入り』のこんな一節がしるされています。
「ご恩になった姉さんにせめて見てもらう駒形のしがねえ姿の土俵入りでござんす」
長谷川自身、幼い頃に母が家を出てしまい、貧しい中、孤児のように暮らします。
頼りになったのは、他人の情け。
職を転々としながら、出会うひとたちの助けを借り、必死で覚えた文章を武器に作家として独り立ちしていくのです。
彼が描く主人公は、決まってアウトローな流れ者。
定職、定住を常とせず、家族を持たない世捨て人。
でも、その主人公には誰よりも深い情があり、その情けがひとを動かし、日常を生きるひとびとに優しさの種を植えていくのです。
戦後、西欧化が進むと、股旅物は、いわゆる「浪花節」と隅に追いやられてしまいますが、その情けを重んじる精神が、日本人の心に脈々と生き続けていることは疑いようもありません。
さらに長谷川の戯曲や小説は、わかりやすい勧善懲悪だけではなく、主人公の逡巡や冷静な観察眼は、純文学にも負けず劣らぬ深さに達しています。
肉親の愛を知らずに育った彼は、誰よりも、助け合う心、ひととひとが触れ合う大切さを痛感していました。
彼は人知れず、後輩を援助し、励まし、世に送り出したのです。
そのひとり、作家の池波正太郎は、こんな言葉をもらいました。
「運、不運は、そのときだけのもの。運がのちに不運ともなり、不運がのちに運のもとになることがある。今のおまえが『自分は不運だ』とがっかりしたら、一生の負けで終わりになる」
日本人の生きる道を説いた作家・長谷川伸が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
劇作家で大衆小説家として名をなした長谷川伸は、1884年、横浜の日ノ出町で生まれた。
土木請け負いの仕事をしていた父は、家庭をかえりみない。
酒、博打に淫蕩。
挙句の果てに、自分の家に愛人を住まわせた。
母は、たまりかねて家を出る。
長谷川が4歳のときだった。
大人であれば母の気持ちも少しは理解できるが、幼い子どもにはわけがわからない。
長谷川は思った。
「僕は、お母さんに捨てられたんだな」。
父は仕事に失敗し、破産。
長谷川は、小学3年生で中退を余儀なくされた。
本を読むのが好きで、もっと勉強をしたかった。
でも、横浜港のドックで小僧として働く。
毎日、泥まみれ。
雨の日も雪の日も休めない。
かじかんだ手に息を吹きかけて休んでいると、隣に座った見ず知らずの男が、「ほら、坊主、これ、食え」と、たったひとつの握り飯を半分割って、差し出してくれた。
美味しかった。有難いと思った。
品川の遊郭に弁当を届ける仕事をしているときは、そこで働くある遊女に可愛がられた。
行くたびに、こう言いながらお菓子や小銭をくれた。
「坊や、いいかい、負けるんじゃないよ」。
奉公先でどんなにみじめでも、泣かなかった。
捨てられた新聞紙を読んで、字を覚えた。
どこかで思っていた。
どんなにひどい状況でも、必ず手を差し伸べてくれるひとは、きっといるはずだ。
『瞼の母』で知られる劇作家・長谷川伸は、幼い頃から芝居を観るのが好きだった。
奉公先でわずかばかりの駄賃をもらうと、それを握りしめ、劇場に向かう。
芝居を観ているとき、そして本を読んでいるときだけが、幸せだった。
そこには、優しい母がいて、悪をこらしめるヒーローがいた。
文章を書くようになる。
最初は好きな芝居の劇評。
新聞社に投稿を続けた。
やがて、記者の目にとまり、雑用係として新聞社に採用。
先輩記者の文章を勉強する。
何度も何度も、真似をして書いてみる。
本を読み、ひたすら書いた。
努力が認められ、記者として正式に採用。
しかし、本当の地獄はそこから始まった。
自分には教養も知識もない。
記者たちに圧倒され、打ちのめされる日々。
みじめだった。
いっそ辞めて肉体労働に戻るか。
考えた末、この場所で歯を食いしばることに決めた。
後戻りはしない。
書くことが好きだった。
もっとうまくなりたい。
どんなに駄目だしをされても、自分を奮い立たせた。
30歳を過ぎて、ようやく小説を書いた。
小説は、魔法だった。
自分の頭の中で描いたことが、文字になる。
そこにはみじめな自分はいなかった。
長谷川の才能にいち早く気づいたひとがいた。
菊池寛(きくち・かん)。
彼は、長谷川を励まし、褒めた。
長谷川は思った。
「僕に優しくしてくれるのは、いつだって他人だ」
長谷川伸は、40歳を越えた頃、占い師に言われた。
「あなたは、そう長くない。気をつけなさい」。
長谷川は思う。
「どうせ長くない人生なら、自分に全て投資してみよう。やりたいことをやって、それでダメなら諦めもつく」
42歳で新聞社を辞め、作家一本で生きていくことを決めた。
以来、彼は毎日、原稿用紙に言葉を置いていった。
79歳で亡くなる、4日前。
彼は「死のうか 生きようか」という文章を口述筆記で残している。
「人生とことんまでくると、何かあたたかいものがあるのですね。
貧しく、派手なこともせず、人に酒を飲ませたこともない、あたりまえの生活をしてきたのに、知らない人から多くの親切をお受けしました。
生きたり、死んだりしている時、生きようか、死のうか、考えました。
死ぬのは簡単で、生きるのは価値を作り出さなくてはならぬ。
ただ生きているだけではつまらないものだと、思いました。
余生を、魚を釣ったり、鳥の声を聞いているのではつまらない。
そんなことではない。
私の生きる価値は仕事にある。
仕事なくては生きていけない。
余生を傾倒させる作品にとりかかりたい。
埋もれた人々を掘り出したい。
誤解された人物を正しく見たい」
生涯、書くことで、ひとの情けを説いた作家・長谷川伸。
彼は、幼い頃知った義理と人情に命を捧げた。
【ON AIR LIST】
ヒューマン・タッチ / ブルース・スプリングスティーン
YOKOHAMA / エディ藩
瞼の母(長編歌謡浪曲 長谷川伸原作「瞼の母」より) / 三波春夫
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