第三百七十二話純粋さを失わない
泉鏡花(いずみ・きょうか)。
先日、50回目の受賞作が発表された泉鏡花文学賞は、金沢市が1973年に制定したもので、地方自治体が主催の文学賞は当時全国で初めてでした。
鏡花は、1873年11月4日、金沢で生まれ、この街を生涯愛し続けました。
ただ、16歳で上京してからは、転居の連続。
湯島、麻布、浅草、神田、本郷、鎌倉と、落ち着きません。
尾崎紅葉(おざき・こうよう)に憧れ、小説家を志し、意気揚々と東京の地にやってきた鏡花は、世間の厳しさに打ちのめされます。
食べるものもない、寝る場所もない。
1年間の放浪生活に見切りをつけるときがきました。
ただ、ひとつだけ心残りがありました。
憧れの大作家・尾崎先生に、せめてひと目会いたい。
明治24年10月19日。もうすぐ18歳になる泉鏡花は、早朝の神楽坂通りを、ひとり歩いていました。
木綿の着物に書生袴、色は白く、痩せていて小柄。
眼鏡は、興奮のためか曇っています。
目指すは、牛込横寺町にある、尾崎紅葉先生の家。
神楽坂を歩いていると、不思議と心が落ち着いていきました。
坂や路地の風景が、ふるさと・金沢に似ていたからかもしれません。
「食べるのにも困るありさまなので、もう故郷に帰ろうと思います。ただ、一度だけ先生のご尊顔を拝したく…」
鏡花がたどたどしくそう話すと、尾崎は言いました。
「おまえも、小説に見込まれたな。都合ができたら、世話をしてやっても良い」
少年・鏡花の純粋な小説への想いが、尾崎の心をうったのです。
玄関先のわずか二畳の部屋をあてがわれ、鏡花は、尾崎邸で暮らすことになります。
魑魅魍魎(ちみもうりょう)、妖怪や化け物、異界との境界線を描く幻想小説を得意とした鏡花ですが、異形の者たちの人間らしさや、純真な人間への救いの手が印象に残ります。
彼は、いかにして自らの純粋さを守ったのでしょうか。
今もなお、多くのファンを魅了してやまない唯一無二の文豪・泉鏡花が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
文豪・泉鏡花の父は、代々加賀藩に仕えた系譜の、腕の立つ彫金師。
母は、やはり加賀藩専属の能楽師の家系だった。
幼い鏡花は、母に甘え、母にまとわりつく。
本の楽しみや、物語の豊かさを教えてくれたのは、母だった。
しかし、9歳のとき、その母が亡くなる。
その喪失感は、生涯、鏡花の心から消えることはなかった。
この世ではなく、あの世に母がいる。
そう思うことで、なんとかバランスを保つ。
異界…ここではない世界への興味は、そうして生まれた。
母への純粋な思いを、彼は物語で包むことを覚える。
鏡花は、人一倍怖がりで潔癖症だった。
雷が大嫌い。大きな音に敏感で、埃や汚れにも神経質。
他の子どものように、泥だらけで遊ぶことができない。
暗がりに、何かが潜んでいるような思いがあふれると、怖くて遠回りした。
人生を図太く生きられない繊細さは、他の子どもからのからかいの対象になったが、そこに創造の種が植えられた。
夜は母を思い、ひとり、泣いた。
「お母さん、お母さんは今、どこにいるの?」
小説家を志して、師匠の尾崎紅葉の家に世話になっていた泉鏡花は、必死に書いた。
寄席に通い、街を散策し、日常の中に、幻想の萌芽を探す。
19歳でようやく新聞に連載が決まり、喜んでいたのもつかの間、金沢の実家で火事が発生。家は、全て焼けてしまう。
さらに、2年後には父が他界。
生活は困窮し、金沢に戻る。
せっかくチャンスがめぐってきたのに…。
心配性の鏡花には、明るい未来が想像できない。
「このまま小説が書けなくなるなら…」
夜遅く、百間堀でお堀の水辺を眺める。
水面に、半分に欠けた月がゆらめく。
「ここに飛び込んでしまえば…お母さんがいる異界にいけるかな…」
そんな思いが頭をかすめた。
でも…急に物語が動き出す。
「もし、ここで川に身投げする女性がいたら…僕は助けるだろうか…助けた女性となんらか関りを持つのだろうか…」
登場人物を水辺に落とすことで、我が身を救う。
泉鏡花は、おのれの繊細さ、悲観的な思いを作品にすることで、消し去る術を覚えた。
家計の苦しさで小説家の夢を諦めかけていた泉鏡花。
心配した師匠・尾崎紅葉は、すぐに金沢に送金した。
再び上京した鏡花は、名作『外科室』を世に出した。
麻酔を拒否して手術を受ける伯爵夫人と、執刀医の隠された純粋な思いを描いた問題作。
この小説は、1992年、監督・坂東玉三郎、主演・吉永小百合で映画化され、話題になった。
今も泉鏡花の代表作のひとつとして、読み継がれている。
さらに、27歳の時に書いた『高野聖』で、幻想小説の大家として存在感を示す。
『高野聖』は、奇妙な小説である。
山奥を旅する僧侶は、なぜ妖艶な女性に化けた妖怪からの難を逃れることができたか。
妖怪は、川辺で白い肌を見せ、男を誘惑する。
誘惑に屈した男は、牛か馬、あるいはヒキガエルかコウモリに姿を変えられてしまう。
僧侶は、女性に化けた妖怪を見たとき、邪心なく、こんな言葉を発する。
「白桃の花だと思います」
妖怪は、僧侶の心が純粋で、感じたままを発したことを知り、彼を見逃す。
作者・泉鏡花は、純粋さを守ることが、この俗世間を生き抜く最良の道と説いた。
ひとの心を動かすのは、流麗な美辞麗句でも読心術でもなく、純粋な心であることを、己の生涯を通して証明した。
【ON AIR LIST】
あの紫は(『子供の国』より) / 泉鏡花(作詞)、中村健(テノール)
宇宙図書館 / 松任谷由実
無伴奏チェロ組曲第6番~サラバンド / J.S.バッハ(作曲)、ヨーヨー・マ(チェロ)
スザンヌ / レナード・コーエン
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