第三百三十六話相反する自分を共存させる
川端康成(かわばた・やすなり)。
今年、没後50年を迎える文豪の作品は、人間の隠れた欲望やフェティシズムを妖艶に描く一方で、詩的な情景描写を駆使して四季折々の華やかさを紡ぎ、美しい日本を世界中に知らしめました。
特に『古都』という作品は、亡くなるおよそ10年前に執筆した、新聞の連載小説で、京都の名所旧跡や、年中行事を物語に織り込み、京都を知る指南書として、いまなお読み継がれています。
文庫本化されたときの表紙の絵は、東山魁夷の『冬の花』。
川端康成と東山魁夷は、17年以上にわたる親交があったのです。
『冬の花』は、川端が文化勲章を受賞した翌年にお祝いとして魁夷が贈ったもので、このとき川端は、睡眠薬の禁断症状の治療のために入院していました。
病室でこの絵を眺めながら、再起を誓った川端は、魁夷にこんなお願いをしました。
「京都を、いま、画いておいてください。いま、画いておかないと、京都はなくなります」
山が見えない、山が見えないと川端は憂えていたのです。
願い通り、東山魁夷は、『京洛四季』という作品で京都の四季の移ろいを描いてくれました。
美しいものをとどめたいと誰よりも強く願う心の内には、幼い頃、相次いで肉親を亡くした体験や、己の容姿に対するコンプレックスがあったのかもしれません。
美しいものへの憧憬と、そうではない自分への落胆。
彼の心に巣食っていった、相反する二人の自分は、小説を書くごとに姿を現していきます。
川端評伝の決定版ともいえる、小谷野敦(こやの・あつし)著『川端康成伝』のサブタイトルは、二つの顔の意味を持つ、「双面の人」です。
孤独な芸術家という顔と、旅や人に会うのが大好きな社交家としての顔、その二つから川端文学が見えてくるのです。
相反する二つの顔を共存させることで、唯一無二の作品を残した天才作家・川端康成が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
ノーベル文学賞作家・川端康成は、1899年、大阪市に生まれた。
家は、30代続く、北条泰時(ほうじょう・やすとき)の末裔。
父は医者で、母は大地主の家柄。
裕福だった。
康成は、長男として誕生。4歳上に姉がいた。
父は開業医をしていたが、体が弱く肺を病み、康成が2歳になる前に亡くなる。
翌年、母も肺病で逝去。
父と母の記憶はない。
両親の愛を知らぬ喪失感は、のちの彼の作品に色濃く影を落とすことになる。
康成は祖父母に預けられ、姉は母の妹夫婦のもとにいき、姉弟はバラバラになってしまった。
祖母は、虚弱で人見知りな康成を可愛がった。
何をしても許してくれる。
夜は寝付くまで、そばにいてくれた。
小学校の入学式。
あまりのひとの多さに怖くなって帰ってきた康成を抱きしめる。
「大丈夫よ、怖くないよ、大丈夫よ」。
安心だった。
祖母がいてくれれば、この世界に自分の居場所を見つけられる。
でも、その祖母が、ほどなく天国に逝ってしまう。
さらに翌年、姉も13歳でこの世を去る。
残された、祖父と康成。
彼の心に、密かに黒い雲が拡がる。
「ボクも、そう長くは生きられないのかもしれない」
幼い川端康成の唯一ホッとできる時間は、読書のときだった。
父が残してくれた蔵書、小学校の図書館の本を、ほとんど全て読みつくす。
読む場所は、木の上。
よじ登り、太い枝に腰かけた。
ここなら誰にも邪魔されない。
遠くも見渡せて、世界全体を把握できたような気持ちになった。
校庭で遊ぶ同級生を見下ろすと、なぜかみんなが幼く見える。
怖かった同級生たちを、冷静に眺めることができた。
世界に祝福されていない自分が、この世に生きていく術はあるだろうか。
康成は、その答えを書物の中に探した。
たくさんあった貯えはどんどん減っていたが、祖父は、不憫な孫に「いくらでも本を買っていいよ」と言った。
中学に入ると読書熱はさらに加速し、購入する本の代金が家計を圧迫するようになる。
汁ものと梅干だけの夕食。
でも、祖父は何も言わなかった。
「おじいさん、ボクね、小説家になりたいと思うんだ」
そんな康成の言葉にも、「そうか、うん、いいじゃないか。おまえなら、きっと小説家になれるよ」と返した。
康成は、まるでこの世で生きていく通行手形のように、小説を書いた。
それは、生涯会うことのできぬ、父と母への恋文のようだった。
川端康成が13歳のとき、最後の肉親とも言える祖父が亡くなる。
まわりの人は、天涯孤独になった康成を哀れみ、泣いた。
「可哀そうに」
そう言われるたび、康成は毅然とした表情を見せた。
「泣いちゃダメだ、ゼッタイ、泣いちゃダメだ」。
もうひとりの自分が言う。
「弱い姿を見せて同情を誘っても、結局、彼等の気持ちを満足させるだけだ」。
悲しみにくれながら、どこかで、まるで木の上から自分を見るように冷静な自分がいた。
人を信じたい、人に甘えたいという自分と、決して人を信じない自分。
その二人を共存させることで、川端康成は、心のバランスを保った。
裕福な家に育ち、天涯孤独でも、お金に困らない。
肉親はことごとく病に倒れ、自分もいつ逝ってしまうかわからない状況で、ひととにこやかに話し、後進を育て、ひとのために時間とお金を惜しみなく使う。
二律背反は、川端康成に深みを与えた。
自分の中に二人の自分がいたら、その両方を大切にすること。
どちらかを消してしまえば、もう一方もいなくなる。
誰もなしえない偉業、誰も書けない小説を支えたのは、相反する二つの自分を併せ持つ、覚悟と勇気だった。
【ON AIR LIST】
子守唄(ララバイ) / 山口百恵(映画『古都』主題歌)
BORN TO BE BLUE / Chet Baker
RAINING IN MY HEART / Gregory Porter with Buddy Holly
眠れない夜 / Bonnie Pink
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