yes!~明日への便り~presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ

第三十話 軽井沢駅からの便り -駅が見守ってきた歴史-

yesとは?

  • 語り:長塚圭史
  • 脚本:北阪 昌人

『自分にyes!と言えるのは、自分だけです』
今週あなたは、自分を褒めてあげましたか?
古今東西の先人が「明日へのyes!」を勝ち取った命の闘いを知る事で、週末のひとときをプレミアムな時間に変えてください。
あなたの「yes!」のために。

―放送時間―
TOKYO FM…SAT 18:00-18:30 / FM大阪…SAT 18:30-19:00
FM長野…SAT 18:30-19:00 / FM軽井沢…SAT 18:00-18:29

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第三十話軽井沢駅からの便り

軽井沢駅の北口に、レトロな赤い屋根の建物があります。
旧軽井沢駅舎記念館。
長野新幹線開通にともない、取り壊された旧駅舎を再建したものです。
1階は展示室。2階には歴史記念館があり、かつての1番線ホームには、電気機関車が展示してあります。
明治26年に碓氷峠を越えて開通した信越本線。
トンネルが26個もあるので、機関車では煤煙被害が深刻でした。
明治45年に、ようやく電化して走るようになったのが、このEC40型電気機関車です。
軽井沢の駅は、特別でした。
夏の避暑地としての地位を得てからは、海外の要人、政財界の重鎮、そして皇室の方々が、清涼な風をもとめてここに降り立ちました。
そのため、駅舎には、待ち合い用の貴賓室が設けられました。
旧軽井沢駅舎記念館には、当時の状態を再現した記念室があります。
カーテンボックス、木製の建具、応接椅子。明治のお歴々の気分を味わいながら、椅子に座ることができます。
往年の天井を見上げ、思いをはせれば、この駅が見守ってきた歴史が、この駅が見送ってきた様々なひとが、見えてきます。

明治21年、1888年12月。
直江津、軽井沢間が開通して、12月1日には軽井沢駅も営業を開始しました。
険しい峠で工事が難航していた横川、軽井沢間も、碓氷馬車鉄道が開業して、鉄道がとおっていない区間を繋ぎました。
それから5年後の明治26年に、碓氷峠の工事が竣工。
アプト式鉄道で、横川、軽井沢間がようやく開通しました。

駅は、見てきました。
苦難を乗り越える勇気を。
駅は、見てきました。
別れと、出会いを。
駅は、見てきました。
ささやかだけど、確かな、心の中のyesを。

群馬県高崎市の初代市長になった矢島八郎は、前橋の高瀬四郎と組んで、碓氷峠に馬車鉄道を走らせることに情熱を注いだ。
彼は、伝えるに馬と書く、伝馬を生業にする家に生まれた。
伝馬とは、使いの者や物資を馬で運ぶ仕事で、江戸幕府の物流を担った。
矢島は、高崎と上野の間に郵便馬車を走らせるなど、運輸業に心血を注いできた。
また地元の名士として、政治家としての辣腕ぶりも発揮した。
そんな彼があえて挑戦した、碓氷峠。
直線距離にすれば10キロあまり。でも、こう配はきつく、標高差は、552メートルに及んだ。
急こう配に急カーブ。鉄道が敷かれるまで、かなりの時間を要することは必至だった。
矢島は思った。
「誰もやらないことにこそ、生きがいがある」
碓氷馬車鉄道は、こうしてできた。
御者ひとりが、馬2頭をあやつり、10人乗りの車両をひく。
上等車は、馬1頭に、5人乗りだった。
森鴎外が、乗車の感想を書き記している。
「山路になりてよりは2頭の馬、あえぎあえぎ引く」

かつて軽井沢万平ホテルの会長で、現在、FM軽井沢 名誉会長の佐藤泰春もまた、軽井沢駅には、言葉に尽くせぬ思いがあった。
軽井沢に鉄道が開通する、その同じころに万平ホテルも、洋風ホテルに生まれ変わった。
今日まで120年以上もの間、軽井沢駅とともに、発展し続けてきた。佐藤は思い出す。
「昔、大人たちは、駅のことを停車場と言っていたな。そういえば、父が教えてくれた。外国人まで、テンシャバと言っていたそうだ」
明治、大正時代の軽井沢は、一面、なだらかな起伏の丘だった。
ホテルから見下ろすと、離山の左すそに、蒸気機関車の煙がもくもくと噴き出していた。
大正から昭和の時代は、夏の軽井沢駅には、客を待つ馬車であふれ、ホテルの送迎も馬車だった。
終戦後は、軽井沢駅にもRTOという米軍専用の建物が建てられた。
佐藤は、疎開を終えて上京するとき、ひとり列車に乗った。
軽井沢駅は、復員兵や引き揚げ者でごったがえしていた。
ヤミ米の摘発の為、鉄道公安官が鋭い目で見張っている。
親が子供の私をきづかって米を持たしてくれていた。
どきどきする。見つかったら・・・。
「おい!そこのぼうず!」
見つかってしまった。
でも・・・事情をオドオド話すと、
「行け!」と見逃してくれた。

軽井沢駅は、文学散策の拠点でもある。
信越線の開業は、日本で最初の高原列車の誕生だった。
高原・・・その響きには、西欧の香りがある。
宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーや、ジョン・レノンがふるさと、スコットランドやイギリスを思い出したように、ここに来る外国人はみな、懐かしさを覚えた。
そうして、文学者たちが執筆のため、夏の間、この地を訪れることで、文化の輪が広がった。
旅の歌人、若山牧水。
彼は明治41年に初めて軽井沢駅に降り立った。
「八月のはじめ信州軽井沢に遊びぬ、その頃詠める歌、火を噴けば浅間の山は樹を生まず」
そんなふうに始まる歌は、牧水自身の失恋の思いを詠んでいた。
高原を走る汽車に気持ちをのせ、彼は軽井沢で傷を癒した。
島崎藤村も、汽車で碓氷峠のトンネルを通ったときのことを、記している。
「軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りてきた汽車、この汽車が通ってきた碓氷のトンネルには、ちょっとあの峠の関門ともいうべきところに、巨大なつららの群立するさまを想像してみたまえ」

文人たちは、汽車を、駅舎を、高原を文学に昇華した。
軽井沢駅は、ひとの痛みや、幸福を一緒に味わってきた。
ホームとは、駅であり、家族。
ホームとは、自分の帰るべき場所であり、そこから未来へ羽ばたく場所。
おかえりなさい。
行ってらっしゃい。
軽井沢駅には、ひとの心をつかんで放さない、哀愁と幸福があった。

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PROFILE

  • 長塚 圭史

    語り:長塚 圭史

    1975年生まれ。東京都出身。96年、演劇プロデュースユニット「阿佐ヶ谷スパイダース」を旗揚げ、作・演出・出演の三役を担う。08年、文化庁新進芸術家海外研修制度にて1年間ロンドンに留学。帰国後の11年、ソロプロジェクト「葛河思潮社」を始動、三好十郎作『浮標(ぶい)』を上演する。近年の舞台作品に、『鼬(いたち)』、『背信』、『マクベス』、『冒した者』、『あかいくらやみ~天狗党幻譚~』、『音のいない世界で』など。読売演劇大賞優秀演出家賞など受賞歴多数。
    また、俳優としても、NHK『植物男子ベランダー』、WOWOW『グーグーだって猫である』、WOWOW『ヒトリシズカ』、CMナレーション『SUBARUフォレスター』など積極的に活動。

  • 北阪 昌人

    脚本:北阪 昌人

    1963年、大阪生まれ。学習院大独文卒。
    TOKYO FMやNHK-FMなどでラジオドラマ脚本多数。
    『NISSAN あ、安部礼司』(TOKYO FMなど全国FM37局ネット)、『ゆうちょ LETTER fo LINKS』(TOKYO FMなど全国FM38局ネット)、『世界にひとつだけの本』(JFN)、『AKB48の私たちの物語』(NHK-FM)、『FMシアター』(NHK-FM)、『青春アドベンチャー』(NHK-FM)などの脚本・構成を担当。『プラットフォーム』(東北放送)でギャラクシー賞選奨、文化庁芸術祭優秀賞受賞。『月刊ドラマ』にて、『ラジオドラマ脚本入門』連載中。
    主な著書に『世界にひとつだけの本』(PHP研究所)、『えいたとハラマキ』(小学館)がある。

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NEWS

特別版『オードリー・ヘップバーンが教えてくれる、明日へのyes!』
常盤貴子さん長塚圭史さん
風も、雨も、自ら鳴っているのではありません。 何かに当たり、何かにはじかれ、音を奏でているのです。
誰かに出会い、誰かと別れ、私たちは日常という音を、共鳴させあっています。
YESとNOの狭間で。
あなたは、自分に言っていますか?
YES!ささやかに、小文字で、yes!
毎週土曜日、明日(あした)への希望の風に吹かれながら、自分にyes!と言ったひとたちの物語を朗読でお届けしている番組『yes!明日への便り』。 1月8日は、その特別版「オードリー・ヘップバーンが教えてくれる、明日へのyes!」をお送りいたします。
2018年に没後25年を迎える稀代の大女優オードリー・ヘップバーンの波乱万丈な人生―女優になるまでの波乱に満ちた半生、輝かしい女優時代、ユニセフ親善大使として世界中の子どもたちに尽くした晩年までを、 女優の常盤貴子さんが演じます。
長塚圭史は「語り」の部分やオードリーの夫、また彼女の人生に影響を与えた映画監督の役を担当します。女優、オードリー・ヘップバーンが、私たちに教えてくれる、明日へのyes!とは?

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