第三十話軽井沢駅からの便り
旧軽井沢駅舎記念館。
長野新幹線開通にともない、取り壊された旧駅舎を再建したものです。
1階は展示室。2階には歴史記念館があり、かつての1番線ホームには、電気機関車が展示してあります。
明治26年に碓氷峠を越えて開通した信越本線。
トンネルが26個もあるので、機関車では煤煙被害が深刻でした。
明治45年に、ようやく電化して走るようになったのが、このEC40型電気機関車です。
軽井沢の駅は、特別でした。
夏の避暑地としての地位を得てからは、海外の要人、政財界の重鎮、そして皇室の方々が、清涼な風をもとめてここに降り立ちました。
そのため、駅舎には、待ち合い用の貴賓室が設けられました。
旧軽井沢駅舎記念館には、当時の状態を再現した記念室があります。
カーテンボックス、木製の建具、応接椅子。明治のお歴々の気分を味わいながら、椅子に座ることができます。
往年の天井を見上げ、思いをはせれば、この駅が見守ってきた歴史が、この駅が見送ってきた様々なひとが、見えてきます。
明治21年、1888年12月。
直江津、軽井沢間が開通して、12月1日には軽井沢駅も営業を開始しました。
険しい峠で工事が難航していた横川、軽井沢間も、碓氷馬車鉄道が開業して、鉄道がとおっていない区間を繋ぎました。
それから5年後の明治26年に、碓氷峠の工事が竣工。
アプト式鉄道で、横川、軽井沢間がようやく開通しました。
駅は、見てきました。
苦難を乗り越える勇気を。
駅は、見てきました。
別れと、出会いを。
駅は、見てきました。
ささやかだけど、確かな、心の中のyesを。
群馬県高崎市の初代市長になった矢島八郎は、前橋の高瀬四郎と組んで、碓氷峠に馬車鉄道を走らせることに情熱を注いだ。
彼は、伝えるに馬と書く、伝馬を生業にする家に生まれた。
伝馬とは、使いの者や物資を馬で運ぶ仕事で、江戸幕府の物流を担った。
矢島は、高崎と上野の間に郵便馬車を走らせるなど、運輸業に心血を注いできた。
また地元の名士として、政治家としての辣腕ぶりも発揮した。
そんな彼があえて挑戦した、碓氷峠。
直線距離にすれば10キロあまり。でも、こう配はきつく、標高差は、552メートルに及んだ。
急こう配に急カーブ。鉄道が敷かれるまで、かなりの時間を要することは必至だった。
矢島は思った。
「誰もやらないことにこそ、生きがいがある」
碓氷馬車鉄道は、こうしてできた。
御者ひとりが、馬2頭をあやつり、10人乗りの車両をひく。
上等車は、馬1頭に、5人乗りだった。
森鴎外が、乗車の感想を書き記している。
「山路になりてよりは2頭の馬、あえぎあえぎ引く」
かつて軽井沢万平ホテルの会長で、現在、FM軽井沢 名誉会長の佐藤泰春もまた、軽井沢駅には、言葉に尽くせぬ思いがあった。
軽井沢に鉄道が開通する、その同じころに万平ホテルも、洋風ホテルに生まれ変わった。
今日まで120年以上もの間、軽井沢駅とともに、発展し続けてきた。佐藤は思い出す。
「昔、大人たちは、駅のことを停車場と言っていたな。そういえば、父が教えてくれた。外国人まで、テンシャバと言っていたそうだ」
明治、大正時代の軽井沢は、一面、なだらかな起伏の丘だった。
ホテルから見下ろすと、離山の左すそに、蒸気機関車の煙がもくもくと噴き出していた。
大正から昭和の時代は、夏の軽井沢駅には、客を待つ馬車であふれ、ホテルの送迎も馬車だった。
終戦後は、軽井沢駅にもRTOという米軍専用の建物が建てられた。
佐藤は、疎開を終えて上京するとき、ひとり列車に乗った。
軽井沢駅は、復員兵や引き揚げ者でごったがえしていた。
ヤミ米の摘発の為、鉄道公安官が鋭い目で見張っている。
親が子供の私をきづかって米を持たしてくれていた。
どきどきする。見つかったら・・・。
「おい!そこのぼうず!」
見つかってしまった。
でも・・・事情をオドオド話すと、
「行け!」と見逃してくれた。
軽井沢駅は、文学散策の拠点でもある。
信越線の開業は、日本で最初の高原列車の誕生だった。
高原・・・その響きには、西欧の香りがある。
宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーや、ジョン・レノンがふるさと、スコットランドやイギリスを思い出したように、ここに来る外国人はみな、懐かしさを覚えた。
そうして、文学者たちが執筆のため、夏の間、この地を訪れることで、文化の輪が広がった。
旅の歌人、若山牧水。
彼は明治41年に初めて軽井沢駅に降り立った。
「八月のはじめ信州軽井沢に遊びぬ、その頃詠める歌、火を噴けば浅間の山は樹を生まず」
そんなふうに始まる歌は、牧水自身の失恋の思いを詠んでいた。
高原を走る汽車に気持ちをのせ、彼は軽井沢で傷を癒した。
島崎藤村も、汽車で碓氷峠のトンネルを通ったときのことを、記している。
「軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りてきた汽車、この汽車が通ってきた碓氷のトンネルには、ちょっとあの峠の関門ともいうべきところに、巨大なつららの群立するさまを想像してみたまえ」
文人たちは、汽車を、駅舎を、高原を文学に昇華した。
軽井沢駅は、ひとの痛みや、幸福を一緒に味わってきた。
ホームとは、駅であり、家族。
ホームとは、自分の帰るべき場所であり、そこから未来へ羽ばたく場所。
おかえりなさい。
行ってらっしゃい。
軽井沢駅には、ひとの心をつかんで放さない、哀愁と幸福があった。
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