第二百三十一話自分で自分を評価する
「周五郎のヴァン」という名の、デザートやブルーチーズによく合う、甘口の甲州ワイン。
このワインをこよなく愛したのが、山梨県大月市出身の作家、山本周五郎です。
武田家の流れをくむ家に生まれた山本でしたが、終生「庶民の作家」と呼ばれました。
『樅ノ木は残った』、『赤ひげ診療譚』、『さぶ』、『青べか物語』など、大衆に愛された多くの作品が、映画化、テレビドラマ化されています。
山本は、歴史小説、時代小説の大家として名を馳せますが、扱う主人公は、信長でも秀吉でも家康でもなく、市井のひと。
それも、弱く、傷ついた流れ者を描き続けました。
口癖は、「どんなひとも、生と死のあいだのぎりぎりのところで生きているんだ」。
小説には「よい小説」と「よくない小説」の2種類しかないと言い放ち、小説の価値は文壇や編集者や評論家が決めるものではなく、読者が決めるものだという信念のもと、あらゆる文学賞を断りました。
1943年、40歳のとき、『日本婦道記』で第17回直木賞に選ばれても、これを辞退。
ただひたすら、読者の心をつかんで離さない、自分の中の「よい小説」を追求したのです。
自伝も書かず、過去を語らず、マスコミも大嫌い。
産み出す作品だけが彼の全てでした。
彼は、なかなか世に出られず焦る若い作家たちに、こう諭しました。
「一足飛びにあがるより一歩ずつ登るほうが、途中の草木や泉やいろいろな風物を見ることができるし、それよりも、一歩一歩をたしかめてきた、という自信をつかむことのほうが、強い力になるものだ」。
どん底の貧乏暮らしに耐えながら、一文字一文字原稿用紙を埋めていった孤高の作家、山本周五郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
小説家・山本周五郎は、1903年6月22日、山梨県北都留郡、現在の大月市に生まれた。
本名は、清水三十六(しみず・さとむ)。
明治36年に生まれたので、三十六と書いて、さとむ、と読ませた。
生まれながらに利かん坊。
負けず嫌いで、誰の言うことも聞かない。
周五郎が3歳のとき、母親は、歯を固く食いしばって失神寸前の我が子を見つけ、驚愕する。
すぐに病院に連れていくが、医者はさらに驚いた。
周五郎は、両方の鼻の穴に大きな梅干しの種を詰め込み、さらに口を閉じていたので呼吸困難に陥ったのだ。
医者は言った。
「フツウ、息ができなくて、口で息をするものです。それをどんなことがあっても口を開かないんだから、びっくりだ。意志が固いというか、頑固というか…」
なぜ、そんなことをしたのか…。
大人になってからも、周五郎自身、よくわからなかった。
4歳になってから迎えた8月。
大雨の影響で笛吹川流域が洪水に見舞われ、周五郎の祖父と祖母が命を落とした。
初めて経験する、身近な死。
彼は幼心に、昨日までの日常が今日失われるかもしれないことを強烈に感じた。
祖父は、よく言っていた。
「桜を見るたびに思う。来年、こんなふうに愛でることができたら、それは奇跡だってねえ」
作家・山本周五郎は、大水害ののち、一家で東京に移り住み、7歳のとき、王子の小学校に入学した。
その年の8月、今度は荒川が氾濫。
またも水害に遭い、家族全員命はとりとめたものの、家財道具や教科書は全部水に流されてしまった。
その後、横浜の学校に転校。
小学2年生とき、周五郎が生涯の恩人のひとりにあげる、水野先生に出会う。
周五郎は授業で、『田中君』というタイトルのこんな作文を書いた。
「同級生の田中君と学校から二人で帰った。
途中、桜木町の桟橋のあたりで、死んだカモメに気づかず、あやうく踏みそうになってしまう。
自分をびっくりさせたカモメが、なんだか憎らしく思えて、カモメをえいっと足で海に蹴飛ばそうとすると、それを見た田中君が、カモメが可哀相じゃないかと言った。
田中君の優しさに自分が恥ずかしくなり、二人でカモメのお墓をつくってあげた。
田中君は、残念ながら家の都合で転校したけれど、田中君に負けない、思いやりのある人間になりたい…」
作文は絶賛され、講堂の前に貼りだされることになった。
周五郎はうれしかったが、予期せぬ事態が起きた。
田中君が、急遽、転校先から再び戻ってきたのだ。
田中君は、貼りだされた作文を見て言った。
「ボクは、一度も山本君と帰ったことなんかないし、カモメなんか知らない!」
全て、周五郎の創作だった。
彼は、同級生から嘘つき!とバカにされる。
学校に行くのが嫌になった。仮病を使い、休む。
ある日、仕方なく学校に行くと、担任の水野先生が言った。
「ちょっと、こっちへ来い」
連れていかれたのは、作文が貼りだされた講堂の前だった。
幼い日の山本周五郎は、緊張していた。
水野先生は、ものすごく怒るに違いない。
ビンタされるかもしれない…。
しかし、水野先生は、周五郎の作文をもう一度読んだあと、こう言った。
「おまえ…小説家になれ!」
え?と先生の横顔を見上げる。
「すごいよ、いい文章だよ。誰が何を言ったってかまうもんか。作文なんて、文を作ると書くんだ。おまえは悪くない。それより、この才能を無駄にするな。いいか、もう一度言う。おまえは、小説家になれ!」
うれしいというより、怒られないでホッとした。
そのあとにじんわり、喜びがやってきた。
小説家という職業があることなど知らなかった。
でも、お話を考えて、それでお金がもらえるらしい。
「はい、ボク、小説家になります」
そう、答えていた。
作家・山本周五郎は、63歳で亡くなる直前、妻に、少しだけ私の話を聞いてほしいと語りかけた。
まるで自らの死期を悟っているようだった。
「私は、ほんとうに幸せだった。あなたのおかげで、思うように仕事もできた。編集者にも恵まれたし、食べたいものも食べたし、飲みたいものも飲んだ。私ほど幸せなものはいない。あなたと結婚するとき、きっと日本一の小説家になってみせるつもりだと誓ったねえ。その決心に変わりはない。そのつもりで一生懸命、頑張ってきたよ。しかし、残念なことに、とうとう日本一の小説家には、なれなかったなあ…」
それが、最期の言葉になった。
愚直に、ただただ「よい小説」を書こうと願った文豪・山本周五郎は、安らかな笑顔と共に旅立った。
【ON AIR LIST】
CARAVAN / Duke Ellington
SLIP SLIDIN' AWAY / Paul Simon
WHEN I WRITE THE BOOK / Andrea Re
HAVE I TOLD YOU LATELY / Van Morrison
閉じる