第三百八十六話人生は、微笑みと苦笑い
久米正雄(くめ・まさお)。
大正時代から昭和にかけて、芥川龍之介、菊池寛(きくち・かん)たちと共に、文壇を支えた重鎮です。
その活動は、小説にとどまらず、劇作家、俳人としても名をなし、さらに趣味で野球、ゴルフ、社交ダンス、麻雀など、多芸多才な人物として知られています。
彼が監督・撮影したドキュメンタリーフィルムには、徳田秋声(とくだ・しゅうせい)、田山花袋、さらには木によじのぼる芥川龍之介の姿が映っていて、近代文学史の貴重な資料になっています。
若くして才能を開花した久米を、こんなふうに評するひともいます。
「器用貧乏」。
親友の芥川も、彼の文章力を評価していましたが、純文学と大衆文学の狭間で揺れ、非難や批判を受ける久米を、どこか冷ややかに見つめていました。
とかく誹謗中傷を受けがちな久米は、私生活でも、マスコミの格好の的でした。
師匠である夏目漱石の娘・筆子(ふでこ)に恋をして、結婚寸前までいきますが、何者かが久米を揶揄する怪文書を送り付けたことがきっかけで、破談。
その後、筆子は、久米の親友・松岡譲(まつおか・ゆずる)と結婚してしまいます。
このセンセーショナルな出来事を新聞や雑誌は書きたてますが、久米は平然とそれを、破れた船と書く、『破船』という私小説にしたためます。
筆子も松岡も責めない優しい語り口に、大衆は賛辞をおくりました。
久米正雄のモットーは、「微苦笑(びくしょう)」。
微笑む微笑と、苦笑いの苦笑が入り交じった、久米の造語です。
人生は、ままならない。
うまくいくどころか、カッコ悪いことばかり。
そんなときは、仕方なく微笑むしかない。
それを、彼は「微苦笑」と呼んだのです。
上田市で生まれた久米は、幼くして父を亡くし、母の郷里、福島県郡山市に移り住みます。
「こおりやま文学の森資料館」の中にある「久米正雄記念館」には、彼の波乱万丈の人生を知ることができる、貴重な資料が展示されています。
特に、晩年暮らした神奈川県鎌倉市の自宅が移築され、ひょっこり久米が顔を出しそうなたたずまいを残しています。
微笑むような、苦笑いするような彼に、逢えるかもしれません。
度重なる誹謗中傷に耐えながら、この世を生き抜いた賢人・久米正雄が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
大正文学を支えた文豪・久米正雄は、1891年、現在の長野県上田市に生まれた。
父は江戸から赴任した、上田尋常高等小学校の校長だった。
慈愛と厳格をまとった父は、町の名士。
正雄は物心つく頃から、「校長の子」と呼ばれる。
そこには、尊敬と称賛のほかに、嫉妬やねたみ、揶揄が混じる。
勉強ができれば、「校長の子」だから、と言われ、運動会で転べば、「校長の子」なのに、と笑われた。
だが、次男だった正雄は、何を言われても気にしなかった。
校長の子どもに生まれたのは、自分のせいではない。
だったら卑屈になるのはおかしい。
近所の子どもと野山を駆け回り、遊んだ。
そんな天真爛漫を打ち崩す出来事が起こったのは、7歳のとき。
父が校長を務める学校で、火災が発生。
父は、燃え盛る炎に飛び込み、あるものを救い出そうとした。
それは、校長室に掲げられた、御真影。
しかし、乾いた風にあおられた火の勢いは強く、御真影は焼失。
自宅に戻った父は、その責任をとり、自決した。
大声をあげる姉、泣き叫ぶ母。
正雄は、ただ、大きな何かを失くしたことだけを体で噛み締めていた。
「お父さん、どうして御飯を食べないの。」
「食いたくなったら食いにゆく。」
これが、最期の会話になった。
久米正雄の母の実家は、現在の福島県郡山市にあった。
一家で移り住む。
肺を病んでいた姉は、ほどなくして、亡くなってしまう。
家族にまとわりつく、死の影。
しかし、正雄には、事態を客観的に見る眼差しが備わっていた。
父に学問は大事だと教わった。
学問は、今すぐ役に立つものと、のちにじんわり役に立つものがあることを聞いていた。
友だちと遊んだが、勉学に手は抜かなかった。
本を読み、文章を書いた。
優秀な成績で小学校を卒業し、安積中学校に入学。
そこで、教頭先生と国語教師に、文学の才能を見出される。
俳句を詠んだ。
教員らが主宰する俳句会に参加。
正岡子規の影響を受けた。
首席で中学を卒業。
無試験で、東大教養学部の前身、旧制一高と呼ばれた第一高等学校に入学した。
そこで出会ったのが、芥川龍之介だった。
二人は文学を通して意気投合。
東京帝国大学英文科に入ると、芥川らと共に、第三次『新思潮』という同人誌を創刊。
発行所は、久米の下宿だった。
小説を書き始める。
久米の真骨頂は心境小説。
自らの体験をベースに物語を紡ぐ。
そうして書いた『父の死』。
小説を書くことで、人生の哀しみを少しは昇華できることを知った。
夏目漱石の門下生のひとり、久米正雄は、戯曲『牛乳屋の兄弟』を書き、手ごたえを感じる。
以後、積極的に戯曲を発表。
上演されると、目の前で反応がわかる。楽しかった。
小山内薫、久保田万太郎らと、演劇改良を目指した国民文芸会を発足。
一方で、里見弴(さとみ・とん)たちと文芸誌『人間』を創刊。
あらゆる団体や雑誌の責任者に任命され、忙しくなる。
久米は、菊池寛にすすめられ、通俗小説を書く。
お金にはなったが、純文学への諦めはつかない。
ただ、若くして、芥川龍之介の才能を知ってしまったのは、不幸だったかもしれない。
不器用で辛辣な芥川とは、違う道を歩むことを余儀なくされた。
器用に文壇や世間を渡り歩く。
自分の失恋や失敗も、小説や随筆にしたため、涙をさそい、笑いを買った。
なんでもできる、そんな自分を隠すことはしない。
それゆえ、非難を浴びても苦笑い。
読者に受ければ、かすかに微笑む。
人生には、案外、微苦笑が似合っている。
つらい現実に立ち向かうためには、これしかない。
久米正雄は、自らの体験を小説にすることで客観化し、いつも、ささやかに笑っていた。
久米の命日は、微苦笑忌(びくしょうき)と呼ばれている。
【ON AIR LIST】
白蘭の歌 / 久米正雄(作詞)、伊藤久男、二葉あき子
鳥の行方 / 橋本一子
ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35「葬送」第1楽章 / ショパン(作曲)、アルフレッド・コルトー(ピアノ)
精一杯の微笑み / 高橋幸宏
★今回の撮影は、「別所温泉 旅館花屋」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
旅館花屋の宿泊予約など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
別所温泉 旅館花屋 HP
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