第二百五十九話思いを伝え続ける
小林多喜二(こばやし・たきじ)。
特別高等警察、いわゆる特高の厳しい監視化の中、世界的な名作『蟹工船』を世に出した小説家です。
「おい地獄さ行ぐんだで!」
という衝撃的な一文で始まるこの小説は、戦前、オホーツク海の北洋漁業で使用された古びた船が舞台。
たらば蟹をとり、船の上で缶詰に加工する。
そこで働くひとのほとんどは東北の貧しい農家出身者。
劣悪で過酷な労働環境や、資本家に搾取される労働者の悲哀をリアルに描いた作品は、世界各国で翻訳され、日本でも映画や舞台になりました。
小林多喜二の名を世に広めた最初の作品は『一九二八年三月十五日』。
そのタイトル通り、1928年3月15日に、軍国化をすすめる政府が反戦主義者を弾圧し逮捕した事件を小説にしました。
「雪に埋もれた、人口15万に満たない北の国から、500人以上も引っこ抜かれていった。これはただ事ではない」
彼はそう、日記に書いています。
保釈された友人から話を聴き、特高の過酷な拷問の実態をリアルに小説化したのです。
ただ、権力と戦う人物を決して英雄然とは描きませんでした。
弱さや迷いもあるひとりの人間として見せる。
そこに彼の文章力と鋭い観察眼、作家としての矜持があったのです。
「僕は、主義主張や思想を伝えたいわけじゃない。なぜ、わざわざ小説にするのか? それは、こんな時代にも、己の心に嘘をつかず、ちゃんと闘った人物を描くことで、誰かの心に種を植えたいと思ったからです」。
壮絶な拷問の末、29歳でこの世を去った反骨の作家、小林多喜二が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
小説『蟹工船』の作者・小林多喜二は、1903年12月1日、青森県の県境に近い、秋田県北秋田郡下川沿村、現在の大館市に生まれた。
父の家系は地主。宿場町の宿屋を営んでいた。
多喜二の祖父は、国学をたしなむ才人で、父もかなりの読書家だった。
しかし父の兄が、事業に失敗し北海道・小樽に出奔。
家はあっという間に火の車になった。
多喜二の父は小作農をやりながら、家計を守ろうとした。
離れも村の学校長に貸した。
わずかな収入も有難い。
多喜二は、農家の生活の厳しさ、貧しさを幼いながらに体感する。
明日食べるものがない不安。
この先、明るい未来を描けない絶望。
離れを間借りしていた学校長は、幼い多喜二の頭の良さに気づく。
「この子は、将来が楽しみです。どうか、できるだけ教育を受けさせてあげてください」
小樽に渡った父の兄から、連絡が来る。
「こっちで事業に成功した。パンの製造だ。よかったら小樽に来い」
自らの失敗を埋め合わせするかのように、弟家族を招き入れた。
小林多喜二4歳の春。一家は、津軽海峡を渡った。
小林家が引っ越したときの小樽では、港の築港工事が、まさに着手されようとしていた。
貧しい漁村に突然訪れた急激な変化。
断崖には爆発音が響き、全国各地から職を求めて、労働者が集まった。
農家の三男坊や、夜逃げ同然の家族。
過酷な労働条件であっても、彼等はそこで働くしかない。
父の兄は、パンの製造でなんとか生計を立てていた。
父は、支店をまかされた。
支店というのは表向き。
早朝、折箱を背負い、工場からパンを仕入れ、坂道に腰掛け、港に出勤する労働者や学生に売る、という日々だった。
多喜二は、そんな父親と共に、パンを売るのを手伝った。
学生が、いらなくなった本をくれた。
父の傍らで、夢中で読む。
それが評判になり、学生たちは多喜二に、文学や哲学、本ならなんでもあげた。
一方で、過酷な労働者の現実を目の当たりにする。
一日、パン一個。
それを買いながら、職場の愚痴をこぼすひとたち。
泥だらけの顔で、多喜二をじっと見た。
「仕方ないんだよ、まあ、仕方ないんだ。世の中なんて、そんなもんさ」。
小林多喜二は、幼い頃から成績優秀。
快活でよくしゃべり、よく笑う子どもに育った。
でも心には、いつも影があった。
伯父さんの家に一家丸ごと居候。
学費も出してもらい、パンを売りながら学校に通う、貧しい子ども。
クラスでは、剽軽なふるまいをしてみせたが、いつも孤高のひととして、友だちはいなかった。
小樽高等商業学校に入学。
小説を書き始める。
学校を出て、銀行に就職。
給料のほとんどを家に入れた。
音楽好きな弟にバイオリンを買ってあげる代わりに、自分は昼ごはんを抜いた。
サラリーマンをしながら小説を書いた。
どんなときも紙と鉛筆を持つ。
朝の就業前、待ち合わせ時間や、就寝前。
一日、一行でも二行でも前に進む。
書きたいテーマはいつも、寡黙に、ただひたすらに働くひとの姿だった。
父がそうだったように、港で働くひとがそうだったように、何も言えない労働者の気持ちを世間に訴えたいと思った。
どんなに止められ、どんなにリスクをおかしても、書くことをやめなかった。
文学は、ひとの思いを伝えるためにある。
自分が書かなかったら、彼等はただ、海の泡のように消えていくだけ。
小林多喜二は、書いた。
鞭でうたれても、水をかけられても、働くひとの思いを伝えるために書いた。
【ON AIR LIST】
BADLANDS / Bruce Springsteen
SECRET OF THE SEA / Billy Bragg & The Wilco
SUNSHINE LIFE FOR ME / Petra Haden With Lenny Pickett
MIND GAMES / John Lennon
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