第百二十五話理解して、共感する
本居宣長(もとおり・のりなが)。
彼は『古事記』の研究に取り組み、三十有余年、注釈書『古事記伝』をまとめあげました。
それ以外にも『源氏物語』の中の「物のあはれ」という価値観に着目。
日本人が決して忘れてはならないものを必死で守ろうとしたのです。
彼が生きた江戸時代中期は、仏教や儒教などの外来文化が、盛んに取り入れられていきました。
外の風を入れることは決して悪いことではない、でも、それにともなって国学や日本の古代研究がすたれていくのは、いかがなものだろう。
強い危機感を持った宣長は、「物のあはれ」がわかることこそ、日本人の素晴らしい本質であると説いたのです。
彼の生き方もまた、当時としては一風変わっていました。
小児科の医者として地域医療に心を砕きながら、夜は国学の研究に寝る間も惜しむ、二足のわらじ生活。
国学の巨人と評され、再三の江戸への誘いもあったのですが、中央志向ばかりでは国は豊かにならないと、それを断り、70年あまりの生涯をほとんど全て、ふるさと、伊勢・松坂で過ごしました。
彼が説いた「物のあはれ」とは、五感に根差した、感情の動きばかりではありません。
もしそこに哀しんでいるひとがいれば、なぜ哀しんでいるかを理解しようと努め、必死で寄り添い、そのうえで、感情を同化、共感させるということ。
本来、日本人とは、「物のあはれ」を知ることで、さまざまな困難に立ち向かってきたのだと、彼は言います。
時代の波にのまれず、我が道を歩き、日本人の魂を説いた、国学者・本居宣長が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
江戸時代の国学者・本居宣長は、1730年、伊勢国松坂、現在の三重県松阪市に生まれた。
伊勢街道と和歌山街道が交差する、最も商人が生き生きとしていた町。
魚を取り扱う店が多かったので、魚町と呼ばれた。
父は、木綿の仲買い人・小津家の家長。
ちなみに、映画監督・小津安二郎は、その末裔にあたる。
現在もその名残をとどめる街並みは、格子窓の町屋、黒塗りの蔵、うだつのある屋根、往来はにぎやかで、活気に満ちていた。
宣長は、8歳で寺小屋に通う。読み書きが得意だった。
11歳のとき、父が亡くなり、商人の道を継ぐべく、江戸にある支店に修行に行かされる。
しかし、ほどなく帰郷。
宣長は、母に訴えた。
「母上、僕には、商いの才覚などありません。そのことは、母上がいちばんよくわかっているのではないですか」。
宣長が何より好んだのは、歌を詠むことだった。
特に山桜が好きで、サクラの樹を見ては、短歌をつくった。
「わかりました。宣長、それではおまえは、医者になりなさい」
母がなぜ医者と言ったのか。理由は単純だった。
家の筋向かいにある医者の家が、たいそう繁盛していたのだ。
こうして、宣長は街道の先にある京都に留学することになる。
そこで彼は、一つ目の運命的な出会いをする。
あまたある出会いの中から、最も大切なものを選ぶ力。
それこそが彼を、高みへといざなう原動力になった。
本居宣長は医者になるため、23歳のとき京都におもむいた。
当時の医者は、漢方医。漢学を学ぶことが必須だった。
その漢学の先生の名は、堀景山(ほり・けいざん)。
すでに65歳になり、宣長を最後の弟子と心得ていた。
景山は、漢学の師でありながら、日本の古典文学にも精通していた。
平家物語を朗々と謳いあげる姿を見て、宣長は感動した。
「なんて綺麗な言葉の響きなんだ。日本の古典は、素晴らしい」
もともと文学好きだった景山は、宣長を可愛がった。
芝居見物や花見を共にし、国学者の友人との宴席に同席させた。
医学を学びながらも、宣長は、ますます国学に目が向いていく。
たくさんいた漢学の師匠の中で、なにゆえ自分の師が景山先生だったのか。
宣長は、そこに偶然ではなく、必然を感じた。
五感を研ぎ澄まし、心の声に耳を傾けられる静かな時を持つ。
そうすれば見えてくる。自分という川が流れるべき方向。向かうべき海が…。
百人一首の注釈本に違和感を持ち、不満を述べる宣長に、景山はひとこと、こう言った。
「今あるものが嫌ならば、自分で新しくつくるしかないんだよ」。
本居宣長は、『源氏物語』を精読して、「物のあはれ」という概念に興味を持った。
「桜がはらはらと散るのを見て、美しいと感じるのは何故だろう。感動するのはどうしてなんだろう。そこにはただ、感情の揺れがあるだけではない。一年に一度だけ咲くために、必死で冬を越す桜のけなげさ、たくましさを理解し、それでも、散る姿の艶やかさを感じる。そうだ、理解して、共感する。この二つこそ、日本人が大切にしてきた『物のあはれ』を知るということだ」。
二つ目の重要な出会い、賀茂真淵(かもの・まぶち)という師匠を得たのは、宣長、33歳のときだった。
二人の出会いは、「松坂の一夜」と呼ばれ、伝説になった。
国学を極めた師匠、真淵がお伊勢参りに来るという情報を得た宣長は、何時間も待ち続けた。
ようやく会えたのは、夜も更けた頃。
宣長の熱意に負けた真淵は入門を許した。
しかし、「江戸に来なさい」という師匠の申し出に宣長はこう返した。
「お言葉ですが、私は、松坂で医者をしながら国学をおさめたいのです。誰も彼もが江戸に行くのは、どこかおかしい。私は伊勢が、松坂が好きです。この地でできることをやる。それでもし私が大成しないのであれば、それは松坂にいたことが悪いのではない。私の知恵と努力が足りないだけです」。
こうして本居宣長は、地方に留まりながら手紙で添削を受けながら、師の教えを受け、歴史に名を残す仕事をやってのけた。
彼は、常に冷静に理解し、熱く共感することで、本懐を遂げた。
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