第二百四十二話自分の足元を掘る
フィンセント・ファン・ゴッホ。
荒々しいタッチと、鮮烈な黄色。
名画『ひまわり』は、彼の代名詞と言っても過言ではありません。
昨年から開催されてきた、ゴッホ展。
特に今年は、世界初の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」が期待を集めていますが、その中の最注目のひとつが、ゴッホが4番目に画いた、『ひまわり』です。
彼はその絵を、共同生活をしたゴーギャンの寝室に飾るために描きました。
ゴーギャンもその絵を気に入り、褒めたたえたと言います。
ひとと交わるのが不器用だったゴッホにとって、『ひまわり』は、彼自身の最高のおもてなしの象徴だったのかもしれません。
意外なことに、描いた花瓶のひまわりは、たったの7点。
それよりもっと多く画いたモチーフは、「土を掘るひと」です。
習作時代から、彼はひたすら、鍬(くわ)で土を掘るひとを描き続けました。
37歳で自ら命を絶つまで、ゴッホの創作年数は、わずか10年あまり。
その10年間で、彼は黙々と土を耕す農民や墓地を掘るひとから目をそらすことができませんでした。
彼は、こんな言葉を残しています。
「絵を描くのはね、この辛い人生に耐えるための手段なんだ。お願いだから、泣かないでくれ。僕たちにとってこれがいちばんいいことなんだ。どうしようもないんだ。僕はこの憂鬱から、逃げることはできない」
ゴッホがほんとうになりたかったのは、伝道師でした。
弱きもののために、牧師として道を照らす。
でもその願いは叶わず、画家として、ある思いを伝えようとしたのです。
「掘るひと」に全てを託して…。
彼が生涯を賭けて私たちに届けたかった、明日へのyes!とは?
日本人が愛してやまない画家、フィンセント・ファン・ゴッホは、1953年3月30日、オランダ南部の村、フロート・ズンデルトに生まれた。
父は、牧師。祖父は特に高名な牧師だった。
長男は死産。
ゴッホの下には、弟が二人と、妹が三人いた。
4歳下のテオとは、生涯、親友のように仲がよかった。
幼い頃から、やっかいな子どもだった。
まわりに合わせることができない。
先生の言っている意味も、よくわからなかった。
「神は、ひとりひとりを平等につくりたもうた、ではないの? なぜ、貧しいひとがいたり、全てを手に入れているひとがいるの? それも、うんと小さな子どものうちに」
ゴッホの家は、裕福な部類に属した。
英語、フランス語、ドイツ語も学び、各国の作家の文学書も原書で読んだ。
でも、やっぱり学校というシステムになじめない。
中学も中退。
母方の叔父が経営する画商に就職する。
父の期待に応えるために必死に働くが、続かない。
絵を、商品のように扱うことができなかった。
イギリスに渡り、フランス語やドイツ語の教師になるが、それも嫌になる。
オランダに戻り、書店に勤めるが、本ばかり読んでいて解雇。
途方にくれていたとき、ある教会に足を踏み入れ、運命の扉が開く。
フィンセント・ファン・ゴッホは、職を転々とし、なかなか定職につけなかった。
父は辛抱強く、待つ。
「フィンセントには、彼なりにいいところもある。職を替わるのは、致し方ないことだ」
24歳になっても、何者でもない自分。
情けなかった。
父が責めないことも、苦しかった。
牧師になろうと、大学の神学部を目指す。
でも…どうしても、興味を持てない。
ある日曜日の朝、ふらふらと町を歩いた。
場末の貧民街に辿り着く。
礼拝堂があった。
重いドアを開けると、そこに、祈るひとの背中が見えた。
パイプオルガンの響き。
体が震えた。
「これだ、こここそ、僕が生きる場所だ」。
学問としてのキリスト教ではなく、伝道師。
実際に、弱きひと、貧しきひとに寄り添いたい。
心から願った。
あえて過酷なベルギーの炭鉱町に出かけ、伝道師を実践する。
落盤事故。
寝食を忘れ、看病した。
自分の服を貧しいひとに与えた。
農民とともに、鍬を振り上げ、土を耕す。
でも…どんなに寄り添おうと思っても、彼等にはなれない。
たどり着けない。
しょせん、裕福な高等遊民。
それを見抜かれているようで、つらい。
誰よりも、深く、長く、泥まみれで土を掘った。
それでも、農夫たちから、こう言われているように思えた。
「もう、その辺でいいですよ、しょせん、あたしたちにはなれませんよ、あんたは」
フィンセント・ファン・ゴッホは、牧師の道も断たれ、27歳のとき、独学で絵を画き始める。
「種をまき」「掘るひと」を描いた。
農民に、炭鉱夫に、寄り添いたい、彼等を救いたい、そんな思いを胸に描き続けた。
画いても、画いても、彼等に近づくことができない。
それでも、諦めない。
やっとつかんだ人生の手ごたえが、そこにあったから。
子どもを連れた娼婦に恋をしたのも、どこかで「救済」という思いがあったのかもしれない。
疑似的に、家族を演じる。
でも、彼女は去っていった。
その娼婦は、こう言っているようだった。
「家族ごっこは、もういらないのよ」
楽園を追放されたアダムは、土を耕すことを課せられた。
まるでアダムのように、ゴッホは、再び「掘るひと」を画く。
「僕は、いつも自分に問いかける。おまえは、ちゃんと自分の畑を耕し、額に汗して、パンを食べているか、と」
そんな中、あるひとつの絵を完成させた。
『じゃがいもを食べるひとたち』。
ささやかなランプの灯りの下で、農夫たちがじゃがいもを食べている。
注目すべきは、その手だ。
さっきまで土を掘っていたと思われる、泥だらけの手。
それが画けたとき、ゴッホの中で何かが変わった。
技術でも知識でもない。
ひとの心をうつのは、魂だ。
そこにどれほどの魂が宿っているか、人生の意味は、そこにしかない。
生前は、ほとんど売れなかったゴッホの絵が、なぜ、亡くなって130年も経つというのに愛され続けるのか。
彼は、「掘ること」を辞めなかった。
一生、自分の足元を掘り続け、やがて、そこに眠った。
【ON AIR LIST】
ゴッホ / 上田現
VINCENT (Starry Starry Night) / Vonda Shepard
いともとうとき(讃美歌第191番) / 草間美也子(パイプオルガン)
VINCENT'S EAR / Michael Franks
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