第四話 心の庭
彼は、こよなく軽井沢を愛した文豪のひとりです。
旧軽井沢の落葉松林を抜け、細い道を歩くと、矢ケ崎川に出ます。
その渓流をのぞむ岸辺に、室生犀星の文学碑があります。
黒い御影石に刻まれた言葉。
「我は張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はそれらの輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す」
室生犀星夫妻の遺骨は、ふるさと金沢から分骨され、彼らは、この川のほとりの石像の下に眠っています。
その石像に光と影をつくっている、秋の木漏れ日。
せせらぎの音が、かえって静寂を深めます。
犀星が、もっとも愛した場所に、自ら建てた文学碑。
彼にとって、この川の音色は、故郷金沢の川のそれに、似ていたのかもしれません。
『ふるさとは、遠きにありて、思ふもの』。
軽井沢は、彼にとって、心の庭でした。
全ての原風景がつまった、自分にyesと言える、庭。
文豪、室生犀星は、1889年、金沢に生まれた。
父は、加賀藩士、小畠弥左衛門吉種(こばたけやざえもんよしたね)。
母は女中で、いわゆる私生児だった。
生まれてすぐに、お寺にもらわれた。7歳で養子になった。
実の父、吉種は、犀星が9歳のときに亡くなり、実の母はそのあと失踪。行方知れず。
ほんとうの父、母の愛を知らずに育った。
「おまえは、妾の子だ!」
いじめられた。悔しかったけど、何も言えなかった。
13歳で学校をやめた。歌を詠むことの素晴らしさを知り、心を傾けた。
書いているときは、何かになれた。
はかないもの、弱いものにばかり目がいく。
いつしか自分を投影している。
居場所がなかった。自分だけの庭が欲しかった。
自分にyesと言える、心の庭。
一度だけ、たったの一度だけ、実の父に遊んでもらった記憶があった。
金沢の犀川のほとり。石を積んで遊んだ。父は何も言わずに、ただそこにいた。
夏を過ごすために軽井沢に来たとき、彼は、矢ケ崎川に、ふるさとを見たのかもしれない。
林のどこかで鳴く鳥の声まで、懐かしかった。
室生犀星は、軽井沢を愛した。亡くなるまでの30年間、毎年夏を軽井沢で過ごした。
今は記念館になっている別荘は、純和風造りの平屋。
西欧風の建物が多い中、異彩を放つ。
この家に、堀辰雄も、川端康成も、志賀直哉も遊びに来た。
庭が見事だった。苔むした、庭。
犀星は、庭が大好きで、自らつくった。
庭づくりのために、石や木、苔と格闘するのが好きだった。
その闘いには終わりがない。つくって壊し、壊して、つくる。
庭を眺めるうちに、キリギリスが午前四時に鳴きやむことを
知った。障子一枚分の窓明かりが、庭石に射す様に、感動した。赤く色づくモミジに、夏の暑さをはかった。
自分の庭は、完成しなかった。
お手本がない。どうすれば居場所に辿り着けるのか、地図も羅針盤も見当たらない。
書いた。詩歌を、随筆を、小説を書いた。
書いては、庭を愛で、庭を眺めては、書いた。
軽井沢の夏が好きだった。
朝晩の凛とした空気。濃い苔の香り。風で揺れる木々の影。
そして、せせらぎ。
近くの教会の宣教師一家が、庭の前を通り過ぎる。
外国人の子供は、エンジェルのようだと思う。
庭から見える風景が、いつも彼の心を揺り動かした。
遠くでまた鳥が、鳴く。
どこかで聴いたことのある声で。
室生犀星は、言った。
「私の人生は、負け続けのようでした。特に庭には、こっぴどく、負けた」
そう言う彼は、少しうれしそうに思える。
ひとは、決して勝てないもの、決して手に入らないものに出会ったとき、失意が混じった喜びを感じるものではないか。
犀星が49歳のとき、最愛の妻、とみ子が、脳溢血で倒れた。
右半身不随になった。それからとみ子が亡くなるまでの20年間あまり、彼は妻を気づかい、妻を支え、看病を続けた。
妻の死後、彼女の残した句を本にまとめた。
自分の文学碑を矢ケ崎川のほとりにつくった翌年、犀星も、この世を去った。享年73歳。
最期まで、自分の庭をつくり続けた。
もしかしたら、矢ケ崎川の近くにつくった文学碑が、彼の心の庭だったのではないか。
そこには、ふるさとに似た、でも何の屈託もなく自分にyesと言ってくれた軽井沢の風が流れていた。
父の思い出の河原を思い出せた。
生涯を連れ添った、妻が一緒にいる。
ようやく庭が完成した。
ただ、決して果てるこのない、せせらぎの音が聴こえる。
ただ、遠くで、ざわざわと秋の風が行き過ぎていった。
室生犀星の心の庭は、こうつぶやく。
「我はせつなき心を愛する」
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