第六十六話熱意と誠意にまさるものなし
12月10日、アルフレッド・ノーベルの命日に、スウェーデンの首都・ストックホルムで授賞式があります。
日本からは、医学生理学賞で、大隅良典さんが選ばれています。
第一回のノーベル賞に、ある日本人が候補にあがっていました。
日本細菌学の父と言われた、北里柴三郎です。
結局、ノーベル医学生理学賞をとったのは、ドイツ人の、エミール・アドルフ・フォン・ベーリング。
破傷風免疫、ジフテリア免疫の発見により受賞しました。
ベーリングは、言いました。
「この免疫の発見は、日本のプロフェッサー、北里なくしては、なしえなかった。北里のおかげです」
日本が世界に誇れる医学者、北里柴三郎は、熊本県阿蘇郡小国町に生まれました。
彼の生まれた家は現在、記念館として残っています。
彼が生まれたのは、大政奉還、廃藩置県、開国など、世の中が目まぐるしく動いていた時代。
そんな中、細川藩が熊本に医学所、いわゆる医学学校を開いたことが、のちの彼の人生に大きく影響しました。
最初は蘭学を学ぶくらいの軽い気持ちで医学所の門を叩いた北里でしたが、ひとたび、顕微鏡をのぞいたとき、神の声を聴いた心持ちだったと言います。
医学の世界で生きていく。
それもすぐに生活やひとびとの健康に役立つ実学を学び実践する。
その願いは、彼の人生を貫きました。
北里は若い研究者にこう言ったそうです。
「君、人に熱意と誠意があれば、何事でも達成するんだ。よく世の中が行き詰ったなどと言う人がいるが、これは大いなる誤解である。いいか、もし行き詰ったとしたら、それは単に、熱意と誠意が足りないだけなんだ」
どんな苦境にあっても、熱意と誠意を忘れなかった細菌学の父、北里柴三郎の明日へのyes!とは?
医学者、細菌学者の北里柴三郎は、1853年、熊本県阿蘇郡小国町に生まれた。
実家は代々続く庄屋。その跡取りだった。
子供の頃からガキ大将。近所の子供たちを引き連れ、野山を駆け回った。
戦ごっこが好きで、将来は武士になると決めていた。
しかし、時代が大きく変わる。
江戸時代が終わりを告げ、日本に海外からの文化や言葉が入ってきた。
やってきたのは文化だけではない。
コレラや赤痢などの伝染病も海を渡った。
ひとびとは原因のわからない伝染病を魔物の仕業だと怖れた。
幼い北里は、とにかく、外国の文化や言葉を学びたいと思った。
ほんとうは長崎や大阪に行きたかったが、親が許さない。
いずれは家業を継ぐのだから熊本から出すことはできないと言った。
そんなとき、熊本に医学所ができる。
そこにはオランダ人の医学者・マンスフェルトがいた。
医者になる気はなかったが、北里はその医学所に入学した。
「オランダ語を学ぶだけでもいいじゃないか」
彼はマンスフェルトのもとに通った。
マンスフェルトは、医学に進む気がない北里にこんな話をした。
「私はねえ、北里くん、ひとは自分が決めた道をただひたむきに歩くのがいちばん幸せだと思っているよ。その道を進むために一日たりとも無駄な時間を過ごすべきではない。私は医学を志したことを、誇りに思っている。ひとを病の苦しさから救うことに一生を捧げる決心をした日から、私は人生の意味を知った」
いつもはオランダ語を教えていたマンスフェルトが、そのとき、初めて北里に顕微鏡をのぞかせた。
おそるおそる目を近づける北里。驚いた。
細胞の組織が整然と並んでいた。ミクロの世界に触れる。
そこには、見果てぬ宇宙があった。
「す、すごい!先生、これはなんですか?」
知りたい、この世界を知りたい。北里少年の心に、熱意と誠意の芽が顔を出した。
目に見えない世界の正体を突き止めたい。
前に進みたいと思う気持ちが常にチャンスを引き寄せる。
北里柴三郎は、熊本医学所から、東京医学所、現在の東大医学部に進む。
そこで彼は医学の道を説いた、「医道論」を同志の前で演説した。
「医学の真の使命とは、ひとびとの健康を守り、安心して暮らしていける世の中をつくることだ。そして、医学の道は、予防に尽きる!」
彼は卒業後、内務衛生局に入局。治療の重要性も知ってはいたが、国の衛生問題に取り組むことにした。
学問は、実学であること。それが彼の信念だった。
研究も、すぐに役立つもの、日々暮らしているひとを守るものでなければならないと心していた。
すでに日本の細菌学者として名をなしていた彼に嬉しい知らせが飛び込む。
ドイツ留学。しかも、細菌学者の権威、ローベルト・コッホ先生の研究室で学ぶことができる。
ドイツに渡った北里は、そのあまりの熱心さでコッホ博士を驚かせる。
妥協はしない。答えが見つかるまで、寝食を忘れた。
北里には世界に蔓延する伝染病、コレラ、ペスト、チフス、それらの細菌を少しでも解明したいという思いがあった。
たったひとりでも多く、たった一日でも早く、ひとの命を救いたい。
その誠意が熱意を促し、彼を駆り立てた。
当時、ヨーロッパを恐怖に陥れていた破傷風。
彼はその純粋培養に成功して世界中を驚かせた。
彼は破傷風菌だけを取り出すために、数千通りの実験を試みた。
暴発で器物を壊すことが多くドイツ語で雷を意味する「ドンネルの男」と評された。
コッホは言った。
「ミスター北里、なぜキミはそこまで頑張れるんだね?」
すると北里は涙ながらにこう答えた。
「こうしている間にも、伝染病で亡くなっているひとがいるんです。誰かを救わなきゃ、実験も研究も意味がないんです」
世界中の大学、研究所から招聘(しょうへい)の依頼があったにもかかわらず、北里柴三郎は、日本に帰国した。
福沢諭吉の後ろ盾もあり、私立の北里研究所を設立する。
やがてその功績は認められ、内務省の傘下に入った。
しかし、ここで大きな時代の流れに翻弄されることになる。
日本は第一次世界大戦への参戦を決め、北里の研究もさらに国の管理下に入る。
彼の了承なしに、内務省から文部省への移管が決定。
これは事実上、東大の傘下に入り、実学ではなく学問としての生業に順じることを意味していた。
「このままでは、もう思い通りに、実用可能な細菌の実験や研究を続けることができないかもしれない」。
61歳の北里は、考えた。
「でも、文部省行きを断れば、100人近い研究員たちが路頭に迷うことになる」
彼は、自分ひとりだけ、研究所を離れ、自分ひとりで新しい研究所を創ることを決めた。
辞表を出した日、彼は後輩たちに語った。
「医学の力を信じてくれ。この研究所に残り、ひとの命を救うための研究をどこまでも続けてくれ」
翌日、一番弟子の北島多一がやってきて言った。
「先生おひとりを行かせるわけには、いきません。私も出ます」。
その声はやがて拡がり、2週間後には、ほぼ100人全員が、辞めていた。
弟子にただ優しかったわけではなかった。
容赦なかった。雷を落とした。
でも、彼らはみんな北里についていった。
北里の熱意と誠意に嘘がなかったから、彼らは北里から離れなかった。
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