第四十四話孤高であること
彼が父のふるさと高知から、初めて衆議院選挙に出馬したときのことです。
冬の冷たい風が吹いていました。
吉田は元来、選挙が嫌いで、演説も苦手だったといいます。
仕方なく街頭に立って、演説しようとすると、聴衆から野次が飛びました。
「おい!オーバーを脱げよ!」
とっさに吉田は、こう切り返します。
「うるさい!これが本当の、ガイトウ演説だ!」
このダジャレに、聴衆は湧きました。
一瞬で聴くひとを笑顔に変えた彼のユーモアは、総理大臣になったのちにも、大いに生かされることになります。
高知龍馬空港の片隅に、ひっそりとある吉田茂像。
平成24年、この場所に移されたそうですが、意外な気持ちになります。
かつて、より親しみやすい場所への移設が求められましたが、「坂本龍馬や板垣退助には遠く及ばない」と反対派の意見もあり、退けられました。
首相時代、地元高知県への利益誘導を求められるも、「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と言い切った男。
その気概こそが、戦後の日本の再建に大きく貢献した生きざまでした。
時に雷を落とす頑固者、時にユーモアで周囲を笑わせる人情派。
葉巻に白足袋。
和製チャーチルと呼ばれた男の明日へのyes!とは?
吉田茂は、1878年、明治11年、東京・神田駿河台に生まれた。
父は、高知県で自由民権運動家をしていた竹内綱。
父・綱は、土佐の宿毛で生まれた。
もともとは下級武士の出身だったが、若くして政治家としての手腕を発揮。
地元を納めていた伊賀家の腹心になった。
のちに大蔵省に勤めながらも、土佐自由党の志士として、活躍した。
彼の性格は、いわゆる「いごっそう」。
土佐弁で、気骨のある頑固者をさす言葉だ。
その性格は、息子、茂に受け継がれた。
五男だった茂は、子供に恵まれなかった実業家、吉田健三の養子になる。
吉田健三は醤油会社の買収に始まり、貿易や地域開発事業を積極的に推し進め、富を築いた。
裕福な家族の一員になった幼い茂。
「若様」と呼ばれた。
義理の母から「茂は気位の高い子だ」と育てられたので、本当に気位が高くなったと、後に吉田茂は語っている。
義理の父、健三は厳しかった。
真冬でも足袋をはくことを禁じた。
朝は4時に起床。
使用人とともに屋敷内の掃除をさせた。
健三は、たとえば板垣退助を客人に迎えても、上座は譲らなかった。
いつも背筋をピンと張り、悠然としている養父の姿は、茂の目にやきついた。
茂が11歳のとき、健三は病に倒れ、急逝。
でも、茂は忘れなかった。
「いかなるときも、気高くあれ。己の価値は己が決める」。
養父の急逝にともない、吉田茂は、幼くして多大な遺産を受ける。
今の貨幣価値で、およそ100億。
そのお金を、よくいえば惜しげもなく、悪く言えば、湯水のように使った。
外遊し、舶来品を覚えた。
ひとに会い、ひとに使った。
晩年、大勲位菊花大綬章を授与されたとき、彼は養父・健三の墓前で、こんな言葉を言ったという。
「おとうさん、あなたの財産は全て使い果たしてしまったけれど、その代わり、陛下から最高の勲章をいただきました。どうか、それで許してください」
外交官になったとき、外務省に白い馬に乗って通った。
新米の身でありながら、ロールスロイスで通うようなものだ。
朝の出勤。馬の上から先輩に挨拶して顰蹙(ひんしゅく)を買った。
「なんだ、あいつは、生意気な!」
でも、吉田茂は、気にしない。
ときに傲慢とも思える豪快な言動は、終生、変わらなかった。
「ワンマン」と呼ばれた。
予算委員会で「バカヤロー!」と言って解散に追い込まれた。
しつこい新聞記者に水をかけた。
ステッキを振り回して、追い払ったこともある。
それでも彼の周りには彼を慕うひとが絶えることがなかった。
白洲次郎も、そのひとりだった。
おそらく白洲は見抜いていたに違いない。
吉田茂の強さの源。
それは、孤高であること。
ひとりから逃げないこと。
1945年、昭和20年8月15日の終戦から数日後、吉田茂は、孫の麻生太郎を連れて外に出た。
一面の焼け野原。うつろな表情の人々。
でも吉田は、しっかりした声で太郎にこう言ったという。
「見てごらん。必ず立ち直る。日本人は、必ず立ち直る」
GHQのマッカーサーとも対等にわたりあった。
「勝ちっぷりも大事だが、負けっぷりもよくないとダメだ」
そう心に決めていた。
「言うべきことは言い、あとは潔く従う」
GHQの司令本部の大きな部屋を、のっしのっしと歩きながら話をするマッカーサー。
吉田はつい噴き出した。
「貴様、何を笑う!」とマッカーサーが詰め寄ると、
「申し訳ありませんでした、司令官。いやなに、実際のところ、ライオンの檻の中で説教されているような気分になりまして、笑ってしまったんです」吉田が言った。
それを聞いたマッカーサーは、大笑いした。
「確かに。あなたはうまいことを言う」
豪放磊落(ごうほうらいらく)でありながら、ひとの気持ちに繊細だった。
強気を貫きながらもユーモアを忘れなかった。
鼻メガネ、白足袋、ステッキと並んで、彼の代名詞となったのが、葉巻だった。
1日、7本から8本。
「ヘンリー・クレイ」かハバナ産の「ラ・コロナ」以外は吸わなかった。
戦後の日本のマッチは火をつけるときに折れてしまうので、わざわざ英国から取り寄せた。
整髪料の「ピノー」と葉巻の香りが、いつも彼のまわりに漂っていた。
彼は色紙に言葉を頼まれると決まってこんな言葉を書いた。
『呑舟の魚、枝流に泳がず』
「舟を飲み込むほどの魚は、小さな川には住まない。志の高い人間は、つまらない人間とはかかわりをもたない」という意味だ。
亡くなる日の朝。
吉田茂は、付き添いの看護婦に「富士山がみたい」と言った。
大磯の自宅から富士山が見えた。
「いいねえ、富士山は、綺麗だねえ」
それが最期の言葉になった。
彼は、唯一無二、孤高である富士山が大好きだった。
【ON AIR LIST】
ONEMAN / 蓮沼執太フィル
Pride(In The Name Of Love) / U2
Hungry Heart / Bruce Springsteen
The Greatest Love of All / George Benson
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