第三百八十一話道を切り開く最初のひとになる
坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)。
岐阜で生まれた坪内は、10歳で引っ越し、18歳まで、現在の名古屋駅近くに住みました。
少年時代の住居跡には、記念碑が建っています。
明治18年、1885年に坪内が発表した『小説神髄』は、それまでの勧善懲悪な物語を真っ向から否定し、小説の概念を芸術の域にまで高めるきっかけになりました。
「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」
そう『小説神髄』に書いた坪内逍遥。
ここでいう人情とは、人間の情欲、百八つの煩悩のこと。
世態とは、日常のさまざまな出来事。
それがどんなにささやかでも、大げさでありえない展開より、現実の描写を丁寧にすること。
それまでの文学は文学にあらずと、今なら炎上必至な発言に、世間はざわつきました。
江戸時代の小説は、物語の面白さだけを追求するがあまり、登場人物の心、心情に寄り添うことは稀でした。
さらに、現実を忘れたいひとたちが、リアルな日常の描写を好まず、それゆえ、小説は、奇想天外なひとたちが荒唐無稽な話の中で動き、善が悪を駆逐する、お決まりの展開。
でも、海外に目を向ければ、すでに小説は芸術でした。
坪内は、シェイクスピアの翻訳を手掛けることで、演劇にも目覚めていきます。
小説、演劇、さらには早稲田大学創設にも関わった坪内は、常にパイオニア精神を持った、開拓者でした。
誰もやっていないから辞めておくのではなく、誰もやっていないから、あえて挑戦する。
こんな坪内の心意気が、世の中を変え、芸術の幅を広げていったのです。
彼は、叩かれました。
エリートでありながら破天荒。
常にまわりをざわめかせる。
坪内は、まわりの目を気にして、本来の自分から遠ざかっていく若者を憂いて、こう鼓舞しました。
「やりたいと思ったら、常に開拓者であれ!」
現在の日本文学の礎を築いたレジェンド・坪内逍遥が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
近代文学の父・坪内逍遥は、1859年、美濃国加茂郡、現在の岐阜県美濃加茂市に生まれた。
父は、尾張藩士。
代官所の手代を勤める、いわば、地方公務員だった。
明治維新を契機に、実家がある名古屋に転居。
逍遥は、開国の空気を存分に浴び、海外に思いを馳せる少年として成長した。
父は気難しく、神経質なまでに几帳面であったのと対照的に、母はおおらかで、趣味が広く、歌舞伎を好み、芸事に精通していた。
逍遥は、母の血を受け継ぎ、ひたすら本を読む子どもだった。
貸本屋に足しげく通い、読本、江戸戯作、俳諧や和歌に親しむ。
当時、名古屋には、日本最大級の貸本屋があった。
逍遥は、この貸本屋を「心のふるさと」と呼んだ。
特に滝沢馬琴(たきざわ・ばきん)の作品に夢中になる。
『南総里見八犬伝』を借りて、握り飯を持参し、蔵にこもった。
わずかに差し込む陽のひかりを頼りに、文字を追う。
幸せだった。
次、さらに次へと、ページをめくる。
真似て自分も書いてみる。
それで満足だった。
そんな彼を変えたのは、兄が教えてくれた、英語だった。
異国の文学に触れたとき、逍遥の心に、うっすらと違和感が宿った。
大好きな戯作に、初めて疑念がわく。
「ただ、面白いだけでいいんだろうか。人間って、こんなに単純な生き物なんだろうか」
『小説神髄』で有名な坪内逍遥は、愛知外国語学校に入り、県の選抜生に選ばれた。
17歳の時、エリート教育の最高峰、東京開成学校に見事合格。
東京大学予備門を経て、文学部本科に進む。
大学の寮に入り、あこがれのバンカラ生活が始まる。
どこかで慢心があった。
遊びほうけて勉学を忘れた。
21歳の時、そんな彼を変える、二つの出来事が起こる。
ひとつは、身内の死。
逍遥に英語を教え、学問の大切さを説いた最愛の兄が、病で亡くなる。
立て続けに、母、父もこの世を去った。
自分の立身出世を信じ、勉学の環境を守ってくれた肉親の死は、彼に刃を突き付けた。
「おまえは、それでいいのか?
そんな生き方で恥ずかしくないのか?」
もうひとつの出来事は、落第。
『ハムレット』の登場人物論を、滝沢馬琴的観点で論文にしたが、酷評を受け、試験に落ちた。
指導教官は、言った。
「キミは、シェイクスピアがまるでわかっていない。
人間を、作者の操り人形のように描く馬琴とは、違うんだよ」
頭をガツンと殴られたような気持ちになる。
「そうだった…かつて、シェイクスピアに夢中になったときに感じた違和感を、ボクは忘れていた…」
坪内逍遥は、心を入れ替え、勉学に励んだ。
文学史の学士号を授与された。
26歳の時、評論『小説神髄』、そして小説『当世書生気質』を発表。
日本の小説のレベルを上げたいと声をあげた。
ある高名な学者は、『当世書生気質』を読んで、言った。
「学士をとった人間が、小説などという卑しいものに従事するなど、もってのほかだ」
当時、小説は、ただの暇つぶし的な読み物として、芸術の範疇に入っていなかった。
それは、現代における、かつての漫画の位置づけと似ていた。
坪内は、外国文学に触れれば触れるほど、近代日本文学の夜明けを願った。
「人間の裏側、欲の行方、人生の不思議、絵画や音楽がそれらをひもといたように、日本文学にできないわけがない」
坪内逍遥の教えは、後の文学者に受け継がれ、日本文学は大いなる発展を遂げる。
1928年、坪内が半生を費やして完成した『シェイクスピア全集』40巻の翻訳完成と、彼の古希の祝いを兼ねて、早稲田演劇博物館が各界有志の協力のもと、設立された。
こうして、文学のみならず、演劇の発展にも寄与した坪内の精神は、今も生きている。
誰も歩いたことのない場所に道をつくったからこそ、後のひとは容易に歩くことができる。
【ON AIR LIST】
YOUNG HEARTS RUN FREE(映画『ロミオ&ジュリエット』) / Kym Mazelle
ロミオとジュリエット / Andy Williams
幻想序曲《ハムレット》作品67 / チャイコフスキー(作曲)、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、レナード・バーンスタイン(指揮)
新しい世界 / サカナクション
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