第三百五十五話心の右肩を上げて歩く
溝口健二(みぞぐち・けんじ)。
1952年、ヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞した『西鶴一代女』も、冒頭の荒れた寺は奈良で撮影されました。
時は江戸時代。モノクロの画面に映しだされる、奈良郊外の寺。
そこで、つかの間の暖をとるのは、お客にあぶれた娼婦たちです。
その中のひとり、田中絹代扮するお春は、ふらふらと羅漢堂に入り、頭上高くまで並んだ五百羅漢を見つめます。
羅漢像に、かつての男たちの面影を重ねたお春は、齢・五十になった自分のこれまでの人生を振り返るのです。
封建制度に抗って生きる女性の心の行方が、流麗なカメラワークで描かれていきます。
溝口健二の真骨頂と言えば、「ワンシーン・ワンカット」。
長回しは、出演俳優たちへの最大のプレッシャーになり、現場の緊張感は、はかりしれません。
でも溝口は、一回きりの真剣勝負、長回しにこだわりました。
一切の妥協なく、人間の本質をえぐる気迫に、俳優やスタッフは圧倒されたといいます。
溝口の映画にいち早く衝撃を受け、影響を受けた映画監督に、ジャン=リュック・ゴダールがいます。
彼は、インタビュアーに「好きな映画監督を3人あげてください」と聞かれ、こう答えました。
「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」。
溝口健二と数多くの映画で組んだ脚本家・依田義賢(よだ・よしかた)は、執拗なダメ出しもめげず、溝口作品を支え続けました。
依田の著書『溝口健二の人と芸術』には、カリスマ性にあふれた映画監督の、人間臭くも哀しい一面が綴られています。
溝口は、ひとになめられないように、幼い頃から、右肩を上げて歩く癖があったそうです。
どんなことがあっても、自分が納得するところまで行きたい。
そのためには、自分を大きく見せることも、自分の弱さを隠すことも、必要だったのかもしれません。
小津安二郎、黒澤明と並ぶ、日本の名監督・溝口健二が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
ヴェネチア国際映画祭で、3年連続受賞の快挙を成し遂げた名監督・溝口健二は、1898年5月16日、東京・本郷区湯島、現在の文京区湯島に生まれた。
父は、根っからの江戸っ子の大工。
おひとよしで、世渡り下手。
商売の才覚もないまま、日露戦争の景気にあやかろうと、兵隊に雨合羽を売る商いを始めた。
方々に借金。
ようやく販売にこぎつけたとき、戦争が終結。
多額の負債だけが残った。
家は差し押さえられ、一家は、浅草に引っ越す。
溝口は、物心つく頃から、貧乏のどん底を味わった。
通っていた小学校には、一部、男女共学クラスがあり、溝口は、その共学クラスに選ばれた。
先生は、比較的性格の優しい生徒を選んだ。
共学クラスの男子は、男子クラスの生徒にいじめられた。
溝口は、喧嘩上等とばかり、右肩をあげて歩くことにする。
自分は貧乏で引っ込み思案、性格も決して強くない。
でも、だからといって、そこに屈するような生き方はしたくない。
こうして彼は、心の右肩も上げながら生きていく道を選んだ。
映画監督・溝口健二は、なんとか小学校を出たものの、進学するお金がない。
体を壊して療養しなくてはならず、奉公先も決まらない。
ようやく15歳で、浴衣の図案屋に弟子入りする。
幼い頃から絵を画くのが好きだった。
でも、浴衣の図案を画いても、心が沸き立つことがない。
もっともっと、絵が学びたい。
浜町の絵師に弟子入りするが、ここでも物足りなさを感じてしまう。
そんなとき、母が亡くなった。
父に振り回され、貧乏に己の身体をすり減らした母。
母は、父に殺されたも同然だ。父を憎んだ。
父が、「絵なんて食えねえよ、さっさと実入りのいい仕事、見つけやがれ!」と怒鳴ると、心の右肩をあげて、心に思う。
「一流の絵描きになってやる!」
日本を代表する映画監督のひとり、溝口健二は、17歳から22歳まで定職につかず、大好きな絵の傍らで日々を過ごした。
一度、名古屋で就職しかけるが、一日で東京に舞い戻る。
父への反発もあったが、自分が好きなことを極めたいという思いが強くなっていく。
図案の仕事などをしながら、黒田清輝(くろだ・せいき)の絵画研究所に通う。
浅草オペラに没頭し、寄席に通い、落語、講談を聞く。
図書館に通い、トルストイ、ゾラ、泉鏡花、夏目漱石など、古今東西の小説を片っ端から読んだ。
短歌を詠み、新劇にのめりこむ。
この5年あまりの日々が、のちの溝口健二をつくった。
何者でもないが、何者かになろうと、もがく。
ともすれば、くじけそうになる気持ちを、心の右肩を上げることで耐え抜く。
やがて、琵琶を教えていた友人の口利きで、映画の撮影所に出入りするようになり、今まで学んだことがすべていきる聖地に出会うことになる。
溝口は、脚本のダメだしの時、依田義賢にこんな言葉を投げた。
「もっと力にみちていることだよ。もっと深く掘り下げていただくんですな。人間を描いてもらいたいんだよ。人間をぶったぎって断面だけを描くんじゃなしに、まるごとですよ」
映画監督・溝口健二は、自らの心を常に奮い立たせ、人間を描き切った。
【ON AIR LIST】
女たち / 曽我部恵一ランデヴーバンド
THE OTHERSIDE / Bobby Oroza
DOWNTOWN BOY / 松任谷由実
★今回の撮影は、奈良県の「般若寺 ~コスモス寺~」様、滋賀県彦根市の「天寧寺」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
般若寺 ~コスモス寺~ HP
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