第百六十一話自分でつくった枠にとらわれない
石川啄木、亀井勝一郎、長谷川海太郎らに並んで、他に類をみない文体で文壇を驚かせた小説家がいます。
久生十蘭。
推理小説、時代小説、SFから冒険小説まで、幅広いジャンルの作品を残す一方、その読者を突き放すような無駄をはぶいた文体は、ある意味不親切で、「オレの文章がわからんやつは、ついてこなくていい!」と言っているかのようです。
芥川龍之介に傾倒したかと思うと、劇作家、岸田國士に師事、演劇の世界にも首を突っ込みました。
生きのいいウナギのように、とにかくつかみどころがありません。
彼に流儀があるとすれば、こうでしょう。
「オレは、嫌なことはしない。好きなことは、とことんやる。ただ、飽きたらまた次へいくまでのことだ」
直木賞を受賞し、さらには第二回国際短編コンクールで第一席に選ばれるなど、華々しい実績をあげながら、気まぐれで無欲。
どんなに「先生!」とまつりたてられても、自身の流儀を変えることはありませんでした。
「みんな、やるべきことにしばられすぎなんだ。人生は一回きり。やりたいことをやらないと、そのうち、何がやりたいかわからなくなるぜ」
彼の生き方そのものともいえる変幻自在の文体は、今も多くのファンを持ち、熱狂的なファンは「ジュウラニアン」と呼ばれています。
おのれの心情を吐露することを極端に嫌った彼の人生は謎に包まれ、そのことがファンの想像をあおっているのかもしれません。
孤高の作家・久生十蘭が55年の生涯でつかんだ、明日へのyes!とは?
直木賞作家・久生十蘭は、1902年、北海道・函館に生まれた。
父は、母方の実家が営む船問屋の番頭。結婚はすぐには許されず、十蘭は2歳にして祖父に預けられた。
孤独な日々を支えてくれたのは、読書だった。
函館という土地柄、異国の匂いがある。
特にロシアは、身近な存在だった。
海外からやってきた書物。原文を目で追いながら、想像する。
ここにどんな物語が潜んでいるか。ワクワクした。
小説に、教訓も説教もいらない。
ただ、驚くこと、不思議であること、日常を忘れさせてくれる構成が全てだった。
函館の中学は、中退。祖父が、東京の中学に入学させた。
東京にいるとき、芥川龍之介を勝手に自分の師匠とした。
「先生の、ひとにおもねることのない作品が好きだ」。
来る日も来る日も、芥川の作品を読み続ける。
やがて、中学に通うことをやめ、ここも中退。函館に戻る。
知人の紹介で函館新聞社に勤めるも、今度は演劇に傾倒。
自ら戯曲も書いた。演劇にのめりこむと、もっと極めたくなる。
上京して、岸田國士に師事した。
しばらく演劇雑誌の編集に携わっていたが、ものたりなくなる。
「演劇をやるなら、やっぱりパリだろう」
なけなしの金をかき集め、いきなりパリに遊学。
シャルル・デュランに学ぶ。
一説によれば、十蘭というペンネームは、このデュランによるものらしい。
帰国後、劇団の演出部に入るが、あっという間に脱退。
語学を生かした翻訳で生計を立てつつ、ようやく小説に本腰を入れる。
流転の人生。しかし、彼にはそれが極めて自然な生き方だった。
作家・久生十蘭は、さまざまなジャンルの小説を書いた。
推理小説、冒険小説、純文学。
そのたびにペンネームを変えていたが、やがて、久生十蘭に落ち着く。
彼の頭の中には、常に構図があった。
どうすれば、読者を裏切ることができるか。
どう書けば、読者の裏をかけるか。
それはどこか物理の数式のようで、伏線の回収が楽しかった。
文壇は、この奇妙な作家の扱いに困った。
まさに変幻自在。毎回、作品のスタイルが違う。
ただ、文体だけは一定していた。
冷徹でシンプル。
いらないものを排除しすぎて、原型をとどめない。
ときにそれは、読者へのサービスに欠けているように感じられた。
「テーマ?感動?そんなもんに振り回されているから、小説がつまらなくなるんだ。作家は、作家の好きに書けばいい。ついてこられないやつは、ほっとけばいいんだ」
でも、十蘭ならではのサービス精神はちゃんとあった。
幼い頃、自分の孤独を救ってくれた小説というものへの畏敬の念は、生涯消えることはなかった。
作家・久生十蘭のエピソードを、澁澤龍彦は、河出書房新社の『文芸の本棚』で披露している。
澁澤が、雑誌の編集をしている頃、鎌倉まで十蘭の原稿をもらいにいったという。
早朝の材木座海岸。
ガラガラと引き戸を開けると、十蘭は「まあ、あがりたまえ」とにこやかに座敷に通す。
いきなり奥方にビールを運ばせ、「まあ一杯、どうだ」とコップに注ぐ。
澁澤が開ければ、奥方がつぐを繰り返す。
あっという間に一本、空いてしまった。
朝、しかも、すきっ腹。
澁澤は、ふらふらになってしまう。
それを見て十蘭は、言ったという。
「実はねえ、原稿、まだできていないんだよ、すまないが、明日また来てくれ」
わけもわからず、千鳥足で駅に向かいながら、澁澤は思った。
「今頃、先生は奥方と、してやったりとばかりに舌を出しているんだろう」。
久生十蘭は、我々に語り掛ける。
「それって、いま、どうしてもやらなきゃいけないことかい?いいんじゃないか?たまには好き勝手に生きても。自分に枠を定めているのは、あんがい自分自身なんだ。どうだろう、そういうの、一度全部忘れてみるのは…。海を見ていると、この世が大きいことに気づかせてくれるぜ」
【ON AIR LIST】
Too Late / RALFI PAGAN
街 / Damia
サンパ / Caetano Veloso
La mer / Charles Trenet
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