第七十一話影を知って光を愛する
そんなお決まりの言葉で終わる映画の解説。
およそ32年もの長きにわたり、『日曜洋画劇場』の解説者として人気を博した、映画評論家・淀川長治。
彼は、兵庫県神戸市に生まれました。
神戸という街に生まれたことは、ある意味、淀川の人生に多大な影響を及ぼしたと言えるでしょう。
活動写真から映画への転換期。
神戸にいたたくさんの外国人のために、洋画が次々上映され、それを文字通り、浴びるように幼少期から観続けた経験は、彼ののちの人生を決定づけたに違いありません。
時代は明治から大正へ。それは神戸の街に、いち早く電気が灯ったときでもありました。
街中に拡がっていく、光の結晶たち。
光の記憶は、淀川少年の心に深く刻まれました。
ガスの火がぼうっとつく、音。匂い、そして光と影。
電気に目を近づける、遠ざける、そんな行為を繰り返すことで、彼はそこにできる映像を楽しむようになりました。
汽車に乗っても、車窓から観るのは、レールの流れ、曲がり具合、スピードに合わせて動く線の揺れでした。
それはまるで動く「絵」。そう、映画だったのです。
外国人がふつうに街を歩き、電気やガス、汽車や船など、異国の匂いと文明の香りに包まれた街で、彼は独特な感性を育んでいきます。
彼は映画から生きることを学びました。
何本も何本も映画を観る。
それは好きだけではすまない修行のような日々です。
彼は言いました。
「大切な一日をあくびなんかしてふやけている人。いやですねぇ。人間が生きるということはどういうことかといつも考える。すると死ぬことだということに帰着する。死ぬとわかれば今日この一日を十分に生きねば損だと思う」。
映画評論家・淀川長治が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
映画評論家・淀川長治は、1909年、神戸に生まれた。
4月9日、母は身重(みおも)の体で父と映画を観ている最中に産気づき、特別人力車で家に帰った。
父は最後までひとりで映画を観続けたという。
ちなみに、そのときの映画のタイトルは日本語名『馬鹿大将』。
『ドン・キホーテ』だった。
1歳の頃から、家の雨戸の戸袋に隠れるのが好きで、「どこいったんやろうなあ」と母が彼を探す声を聴くとうれしくなったという。
一階の廊下のはしの、雨戸の戸袋。真っ暗な中にいると落ち着いた。
その暗い中に、小さな穴から幾筋の光が射している。
その光は、戸袋の壁に面白い「動く絵」を見せてくれた。
まばゆい光は、まさしく、映画だった。
家族の誰もが、活動写真が大好きで、物心つく前から、祖母も両親も姉も庭師もお手伝いさんも、みんなが淀川を映画館に連れていった。
当時はどの小屋も3本立て。活劇、人情劇、連続活劇。
サイレントに弁士がいた。
幼稚園の頃から毎週3館を回り、15本観ていた。
映画館の2階には当時珍しい椅子席をつくり、靴カバーが用意されていた。
そこには西洋人、日本の軍人、お役人、ハイカラな日本女性が座った。
10歳のとき、モーリス・ターナー監督の『ウーマン』というオムニバス映画を観て、映画の魅力に完全にはまった。
さまざまな境遇、いろいろな国籍のひとたちがみんな同じように息を飲んで画面に釘づけになる。
淀川長治は、幼くして思った。
「映画とは、国と国の垣根をなくす。映画とは、人間を知ることだ」。
4歳の頃から自分の意志で映画を観るようになった淀川長治は、そのころから、いい映画はひとに紹介せずにはいられなかった。
あるとき、幼い淀川少年は、素敵な映画に出会う。すぐに映画館の館主に電話を借りて自宅に電話した。
「早よう、おいで!この映画面白いでぇ、みんなおいでぇ!」
家族の席を予約した。
映画には詳しかったが、虚弱体質で、体操はまるでダメだった。
馬跳びができずに笑われる。小学生の頃には、同級生にゆすられた。
「明日、金、持ってけえへんと承知せんぞ!」
いろんなものをせびりとられた。
それでも、映画ごっこをやれば、誰よりも輝いていた。
映画館の暗闇は、仲間。映画は教師であり、親だった。
映画は、愛を教えてくれた。映画は、苦労が人間に必要なことを教えてくれた。
映画が教えてくれたことを手帳に書いた。
「世の中は根気の前には頭を下げるが、一瞬の火花の前では一瞬の記憶しか残らない」。
生まれた家は芸者屋だった。親は教育に興味がない。
ある日、算数があまりにできないので先生に怒られた。
「淀川!おまえは、なんで映画が好きなように、算数がでけへんのや!」
彼はこう返した。
「映画以上に素晴らしいもんはないからです。センセ、一回、今やってる『ステラ・ダラス』言う映画、観てください。それ見たらわかります」。
教師は『ステラ・ダラス』を観て号泣した。以来、学校行事に映画鑑賞が加わり、その映画を選ぶのが淀川の役目になった。
映画を仕事にしたいというと、父に怒られた。
でも母は言った。
「あんたが好きなことをやるんが、いちばんええんや」
淀川長治は、映画評論、映画解説を一生の仕事に選んだ。
およそ32年務めた『日曜洋画劇場』の解説をするために、番組で紹介する映画は最低3回観た。
「どんな映画にも、必ずひとついいところがある!」
それが持論だった。
彼の優しさの陰にこんなエピソードがある。
ある講演会が終わり、会場の出口に向かうとひとりの少年が握手を求めてきた。しかも左手で。
淀川は「握手とは右手でするもの、左手は決闘を申し込むときのものだ」とそれを拒んだ。
車にのりこんだ淀川がルームミラーで見たのは、少年の哀しそうな顔、そして、実体がなくはためく右腕のそで。
彼は大慌てで引き返し、泣きながら少年にあやまった。
少年は事故で右腕を失くしたことと、講演が聴けなかったのでせめて握手してほしかったことを告げた。
淀川は次の予定をキャンセルして、少年と映画の話をした。
この経験を彼は生涯忘れることはなかった。
淀川長治は、いう。
「濡れた心を持たないと、砂を噛むような味気ない人生を送る羽目になります」。
亡くなる間際まで、映画を観続け、紹介をやめなかった。
永眠する前日に収録された映画解説。その映画のタイトルは『ラストマン・スタンディング』。黒澤明の『用心棒』のリメイクだ。
淀川長治が解説の最後に必ず言った、「さよなら」は、死ぬことこそ人生を豊かにするのだという彼の人生哲学に裏打ちされているのかもしれない。
彼が愛した、光と影。
影を意識することで、光はより輝く。
【ON AIR LIST】
夢の途中 / 来生たかお
Hello, Goodbye / THE BEATLES
My Way / Frank Sinatra
光と影 / ハナレグミ
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