第二百二十三話好きなものには食らいつく!
戸田奈津子(とだ・なつこ)。
彼女は、学生時代に字幕翻訳者という、当時まだそれほど知られていない仕事につきたいと思いました。
一度は別の仕事につきますが、もう一度夢を叶えたいと一念発起。字幕翻訳の巨匠、清水俊二(しみず・しゅんじ)に手紙を書きます。
その日から戸田が夢を叶えるまで、およそ20年かかりました。
「狭き門ってよくいうでしょう。あのね、開けてくださいって叩く門がそもそもないの。壁なのよ、一面、壁。そんなとき、夢だ、目標だって気持ちだけでは、中に入れっこない。食らいつく強い意志がないとね。私はこれでやっていくんだって信じる思いがないとね」
映画の字幕というのは、翻訳ではないと戸田は言います。
『字幕の中に人生』というエッセイの中でこんなふうに語っています。
「かたや練りに練ったシナリオのせりふがあり、かたや観客の映画鑑賞の邪魔にならない限度の字数がある。その中間には必ずどこかに、限りなく原文に近く、しかも字幕として成り立つ日本語があるはずである。細い細い線のうえに、その線を綱渡りのようにたどってゆく努力が、字幕づくりの基本である」。
一秒四文字、十字×二行以内のせりふ作りにすべてを賭ける映画字幕の第一人者には、ひとには理解できない苦労がありました。
洋画で朝、父親が出ていくシーン。
「Good bye」と家族に言う。
これを「さよなら」と訳してしまえば、まるで父親が家出してしまうように見えます。
戸田は「行ってきます」と訳すのです。
原文とは違う。では誤訳か?
批判を怖れて原文通りに訳しても、映画として成り立たないものは字幕ではないのです。
戸田は言います。
「映画は、字幕を読みにいくものではありません」
独自の矜持を大切にして、40年以上にわたり第一線で闘い続ける字幕の女王・戸田奈津子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
映画の字幕翻訳の第一人者・戸田奈津子は、1936年7月3日、福岡に生まれた。
父は愛媛県の農家の出。学校では成績優秀で卒業後は銀行員になった。
転勤が多い中、見合いで結婚。戸田が生まれた。
しかし、日華事変で招集。
優秀がゆえに中隊長になり前線に送られ、戦地で亡くなる。
享年31歳。戸田がまだ1歳のときだった。
父の記憶はない。
父の実家からは同居を勧められたが、母は頑として断った。
自分の実家がある東京に娘を抱いて戻る。
母は、家政科の教師をしながら戸田を育てた。
親子関係は、いたってクール。
戸田も、たったひとりで遊ぶことを厭わなかった。
友達もいない。母も一日中働いている。
それでも寂しくなかったのは、本があったから。
絵本から始まり、あらゆる本を読みあさる。
空想の世界に遊ぶ時間が至福のときだった。
父がいた記憶があれば、寂しいと思ったのかもしれない。
でも、最初からいないので、不在はあたりまえ。つらくなかった。
空襲が激しくなり、ついに母と娘は愛媛に疎開を決意した。
夫の実家には住まず、近くの寺に居を借りた。
戸田の遊び場は、お墓のあたり。
それはまるで映画『禁じられた遊び』の世界だった。
字幕の女王・戸田奈津子が初めて映画を観たのは、疎開先だった。
お墓に囲まれた寺での生活。
夏は、蚊と蚤(のみ)にやられる。
顔は、おできだらけ。体中、蚊に刺された。
母は一計を案じた。
近所の映画館には蚊がいない。二人で逃げ込む。
ただ蚊をよけるためだった場所。
そこが、戸田奈津子の聖地になる。
暗闇の中に映し出されるスクリーン。
釘付けになった。
観客みんなが、固唾をのんで次のシーンを待つ。
ワクワクした。
それからは、映画館に通うようになる。
終戦後、東京に戻る。
従兄弟や親との雑居生活。
ひとりっこの戸田には、新鮮でうれしかった。
ひとり、従兄弟に魚好きの男の子がいた。
彼は誰よりも魚に詳しく、バカにされてもひやかされても、聞かれれば魚について熱心に語った。
戸田は、そんな彼をすごいと思った。
好きなことがある人生とない人生、全然違うんだな、と感じた。
ちなみに、その従兄弟。
魚好きを極め、天皇陛下の侍従として皇室で飼われている魚の世話をする仕事についた。
字幕翻訳者・戸田奈津子は、終戦後、洋画にはまった。
チャップリンから西部劇。
ヨーロッパの映画もわからないなりに面白かった。
クジラのベーコンやピーナッツだけを映画館に持ち込み、暗闇の中で時間を過ごした。
高校生のとき、『第三の男』という映画に出会い、体中に電流が走った。
主役のジョセフ・コットンが素晴らしい。
でも、何度も見るうちに、構成や音楽、映像の全てに魅了された。
字幕も暗記してしまうほど、夢中になる。
「スイスが500年の平和で作ったものは、鳩時計だけだ」という名台詞に感動した。
字幕を初めて意識した。
ジョセフ・コットンに闇の酒屋が言った字幕。
「今夜の酒は荒れそうだ」という表現がカッコよく聴こえた。
原文を調べる。
「I shouldn't drink it. It makes me acid.」
acidには、“酸性”の意味があり、不機嫌というニュアンスもある。
それを翻訳者は、「荒れそうだ」と訳した。すごい。
すぐに、字幕翻訳を多く手掛けていた清水俊二に手紙を書く。
「私、字幕翻訳の仕事がしたいんです」
しかし、清水は「難しい仕事だよ、職業としてのチャンスがめぐってくるのはそうないし」と返した。
それでも、戸田は諦めなかった。
夢を見ることは誰にでもできる。
でも、大切なのは、食らいつけるかどうか。
先駆者は、諦めない。
先駆者には、人生を投げうつ覚悟がある。
【ON AIR LIST】
POWER OF LOVE / Huey Lewis & The News(映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』より)
愛のロマンス / 荘村清志(映画『禁じられた遊び』より)
Melody Fair / The Bee Gees(映画『小さな恋のメロディ』より)
THEME FROM MISSION IMPOSSIBLE / Larry Mullen & Adam Clayton(映画『ミッション:インポッシブル』より)
閉じる