第三百三十一話自分で決めた姿勢を貫く
原節子(はら・せつこ)。
戦前から戦後にかけて、黒澤明や小津安二郎などの名監督と組み、日本映画を代表する女優として銀幕を彩ったレジェンド。
彼女がそのカリスマ性をより強くした理由、それは42歳という早すぎる引退、若すぎる隠遁生活にあります。
95歳で亡くなるまでの53年間、原節子は、鎌倉の自宅にひっそりと暮らしたのです。
ごくまれに外出するときは、マスクをつけ、人目をはばかり…まるで世捨て人のように。
なぜ、絶頂期に原節子は引退したのか?
さまざまな憶測が流れました。
最愛のひと、小津安二郎が亡くなったことによる喪失感、老いていく姿をみられたくないという女優としての矜持、さらには病気説など、謎は謎を呼び、いまだ藪の中です。
そんな中、優れた文章力と綿密な取材で定評のあるノンフィクション作家・石井妙子(いしい・たえこ)が書いた評伝『原節子の真実』は、本名・会田昌江(あいだ・まさえ)と、芸名・原節子の間で揺れる自己矛盾を見事に解き明かし、引退への心の流れを丁寧にひもといています。
原は、もともと学校の先生を志望していました。
女優になる気などさらさらなかったのですが、貧しい家計を助けるために、若干14歳で仕方なく足を踏み入れたのです。
美しい顔立ちが先行。
演技は「大根」と揶揄され、28年の女優人生の間、心から映画界になじむことはできませんでした。
現場で笑顔を見せた、そのすぐ後、気がつくとロケバスやデッキチェアで独り本を読んでいる原節子の横顔は、どこか崇高で孤高。
うかつに声をかけられない雰囲気を醸し出していました。
彼女には、ひとつだけ守り続けたものがあります。
それは、「自分で決めた姿勢を貫く」ということ。
集うことより、群れることより、凛とひとりで立つことを選ぶ。
波乱に満ちた人生を駆け抜けた、伝説の映画女優・原節子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
映画女優のレジェンド・原節子は、1920年6月17日、現在の横浜市保土ヶ谷区で生まれた。
7人兄弟の末っ子。
節子が生まれたとき、父は48歳で、母は38歳。
いちばん上の姉とは19歳も離れていた。
家は、日本橋に4代続いた生糸問屋。
祖父の代でやや家業は傾いたが、父は新しい商いをやろうと横浜にやってきた。
母の実家がある保土ヶ谷は、高台の高級住宅地として開発され、家は坂の途中のモダンな二階建て。
姉たちは、東海道線のグリーン車に揺られ、フェリス女学院に通った。
裕福な暮らしは、長く続かなかった。
最初の災厄は、節子3歳のとき。
1923年9月1日。
地面が激しく揺れた。関東大震災。家は、倒壊してしまった。
この震災がもとで、節子の母は心身を病むようになったと言われている。
さらに世界的な大恐慌も重なり、生糸が売れなくなる。
節子の家は、貧困にあえぐようになっていった。
母は病に伏せって、時々、わけのわからない言葉を吐く。
子どもたちの着るものがなく、いつも同じ。
同級生にからかわれた。
節子は、辛くなると本を読んだ。
読書が彼女の唯一の拠り所だった。
大きな瞳は、いつも見ていた。誰が自分を裏切り、誰が自分の悪口を言うか。
やがて彼女は幼くして悟る。
ひとをうかつに信じてはいけない。頼れるのは、自分だけ。
中学に入った節子に、映画会社に勤めていた義理の兄が、こんな提案をした。
「ねえ、よかったら、女優にならないかい?」
14歳の原節子は、女学校をやめて、女優になることを決断した。
「私が映画女優になれば、家計の足しになるかもしれない」
節子は、少しでも家族のために力になりたいという思いが強かった。
女学校の校長は驚く。
節子は学業優秀。常に成績はトップだった。
「もう一度、考え直しなさい。学費は、私が用立ててあげてもかまわない。女優だなんて不安定な仕事、キミには合わないよ」
校長の必死の引き留めにも関わらず、節子は学校をやめた。
自分で飛び込んだ世界だったが、撮影所を見学して早くも後悔した。
いい歳をした大人たちが、品のない化粧に派手な着物を着て、大声で話している。
前を通ると、ジロジロ見られる。
うつむいて歩くと、からかわれた。
真っ赤になって走り去る。
なかなか役はつかなかった。
演技経験もなければ、歌も踊りもできない。
やせっぽちの、気の弱い自分がみじめだった。
しかし、周囲を驚かす瞬間があった。
やっとめぐってきたデビュー作品。
節子は、ひとたびカメラの前に立つと、豹変した。
そこに引っ込み思案な女の子はいない。
生き生きと笑い、活舌よく話した。
女優・原節子が誕生した。
日本国内だけでなく世界にその名を知られる映画監督・小津安二郎は、原節子を絶賛した。
「一時、世間から、美貌がわざわいして、演技が大変まずいというひどい噂をたてられたこともあるが、僕はむしろ世間で巧いといわれている俳優こそまずくて、彼女の方がはるかに巧いと思っている。原節子ほど、理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい」
原節子は小津に見いだされることで、さらに女優の道で開眼したが、終生「家族を養うためにやっていること」というスタンスを変えなかった。
だから、もはや家族のために働かなくてもいい状況になれば、女優を続ける意味を見出せなかったのかもしれない。
原節子は、自らの立脚点を生涯、見失うことがなかった。
彼女は、好きなものは何ですか?と聞かれ、こう答えた。
「好きなこと、読書。次が泣くこと、次がビール、それから怠けること」
怠けることができない人生の先に、穏やかな鎌倉の陽射しが降り注いだ。
【ON AIR LIST】
鎌倉物語 / サザンオールスターズ
青い山脈 / 藤山一郎、奈良光枝
東京物語 / 斎藤高順(作曲)
アズ・タイム・ゴーズ・バイ / ドゥーリー・ウィルソン
★今回の撮影は、鎌倉市川喜多映画記念館様にご協力いただきました。ありがとうございました。
なお、現在「原節子と山口淑子」特別展は終了しております。
現在開催中の展示など、詳しくは公式HPよりご確認ください。
鎌倉市川喜多映画記念館
https://kamakura-kawakita.org/
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