第百二十六話軽々と、生きていく
伊賀の生まれ、しかも先祖には忍者もいたという史実から、芭蕉も忍者ではなかったのか、という説がまことしやかに語られています。
弟子の曾良(そら)との旅をまとめた紀行文「奥の細道」も、仙台藩の謀反を事前に知るための隠れ蓑ではなかったか。
事の真偽はともかくとしても、「奥の細道」の文学性の高さは、世界中からの評価が物語っています。
「月日は、百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎うる者は、日々、旅にして、旅をすみかとす。古人も多く、旅に死せるあり」。
有名な冒頭部分でも書かれているとおり、当時の旅は、死ぬ覚悟で臨むものでした。
人生すなわち旅、という考え方は、芭蕉が思いついたものではありません。
唐の李白、日本の西行など、多くの歌人が人生を旅になぞらえていました。
では芭蕉の独創性は何処にあったのでしょうか?
それは、実践でした。自ら動き、旅をしてみて、実証していく。
あたりまえのようで、なかなかできないのが世の常なのです。
46歳でめぐったみちのくの地は、奇しくも、東日本大震災の被災地と驚くほど一致しています。
およそ、150日間の旅の果てに、芭蕉は二つの境地に辿り着きました。
ひとつは、不易流行。全ては変化しながらも、普遍であるという考え方。
そしてもうひとつが、軽み。人知を超えたことが起こりうる世の中だからこそ、できるだけ軽々と生きていきたい。
そんな祈りにも似た願いが、彼の心に舞い降りたのです。
俳句の神様、松尾芭蕉が私たちに教えてくれる明日へのyes!とは?
松尾芭蕉は、1644年、伊賀国上野に生まれた。
父は、位はかろうじて武士でありながら、生活のために農業をやらざるを得なかった。
12歳のときに父が亡くなり、いよいよ家計は逼迫(ひっぱく)する。貧しく、みじめだった。
芭蕉は父が仕えていた藤堂藩に奉公に出る。
この藤堂藩の藩主が、文学を重んじた。
よく気が付き、いつも謙虚な芭蕉は藩主に気に入られ、俳諧の手ほどきを受ける。
20歳のときには、選集に選ばれるほどに上達した。
俳句は、和歌に比べ、その地位が低かった。
でも、最小の言葉で世界を映し出す文学に、芭蕉は魅せられた。
伊勢では知らないひとがいないほどの実力を得た芭蕉は、江戸に出る。
粗末な家。狭い庭には雑草ばかりが生い茂る。
彼はここに、樹を植えた。それがバショウの樹だった。
バショウは、ほとんど実をつけない。
しかも、大きな葉っぱを揺らし、バタバタとうるさく、風に負けて穴があく。
そんな無様な姿が気にいった。
「俺は、恰好など気にしない。どんなに貧しくても、恰好悪くても、一生を文学に使いたい。どんなに破れても、葉っぱを大きく広げるこのバショウの樹のように、生きたい」。
彼は俳号を、芭蕉にした。松尾芭蕉は、こうして誕生した。
松尾芭蕉が俳句を読み始めた頃、俳句はまだ、言葉遊びの域を出ていなかった。
芭蕉の師匠の宗因が、「いま、お持ちします」と言われながら、なかなか出てこない雁(かり)という鳥の料理をまちわびる様を、こう読む。
「今こんと言いしば雁の料理かな」
句会は、大爆笑に包まれる。
でも、芭蕉は、どうしても笑えなかった。
「違う、俳句というのは、日本人の美の象徴だ。もっとある、俳句の可能性は、もっと他にある」。
芭蕉が隅田川のほとりの芭蕉庵で句会を開いたとき、外でポチャンと音がした。
芭蕉は「蛙(かわず)飛こむ水のおと」と詠んだ。
その上に、なんとつけるか…。
芭蕉はしばらく考え込み、「古池や」とつけた。
「古池や蛙飛こむ水のおと」
この句は、芭蕉を高みへと押し上げる、蕉風開眼の句と称賛された。
なぜ、すごいのか。それは、古池というのが、フィクションであり、芭蕉の心象風景であるからだ。
俳句は、事実や目の前の出来事、言葉遊びで終わるものではない。
想像を駆使して、心を描けるものなのだと、この句で証明した。
この句を詠んで3年後、松尾芭蕉は、旅に出ることを決意する。
世界的に有名な俳句の神様、松尾芭蕉は、46歳で旅に出た。
もしかしたら、二度と生きて帰れないかもしれないという覚悟を胸に。
深川を出て、日光から白河へ。
弟子の曾良とともに、神社仏閣を周り、身体を清めた。
そうして訪れたみちのくは、歌を詠む歌人たちが空想で歌枕にするほど、風光明媚な土地だった。
この行程は、東日本大震災の被災地と重なる。
芭蕉は、自分の目で見て、確かめた。
実際に目にする風景は、決して感動を生むものばかりではなかった。
自然に浸食され、さびれ、朽ち果て、空想だけの景色とは全く違った。絶望感がやってくる。
「俺が求めていたのは、これだったのか…」
でも、丁寧に心の目で、眺める。
そこには、命があった。季節があった。営みが息づいていた。
「そうだ、俺は自分の名を芭蕉とつけたじゃないか。恰好ばかりが人生ではない。ぶざまでも、枯れているように見えても、明日への新しい芽が生まれている。日本人は、美しいという言葉の本当の意味を知っているんだ。それは表面的なことだけではない。どんなに倒れても、崩れても、明日を想う強い心だ。ああ、俺は欲しい。何があっても平気で歩いて行ける、『軽み』がほしい」。
旅から戻った芭蕉は、およそ5年の歳月をかけ、「奥の細道」を推敲した。構成を変え、想像力で補った。
それはもう、紀行文ではない。文学だった。
彼が望んだ、最高の哲学書だった。
「人生は、つらい。いいことなんて、ひとにぎりだ。だからこそ、軽みを身に着けよう。軽々と宙を舞うように、歩いていこう。笑いながら」
【ON AIR LIST】
ブレーメン / くるり
ハミングバード / 斉藤和義
I Won't Give Up / Jason Mraz
旅立ちの唄 / Mr.Children
【撮影地】
蓑虫庵
http://www.basho-bp.jp/?page_id=46
芭蕉翁生家
http://www.basho-bp.jp/?page_id=40
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