第百二十七話おかげさまで、を大切にする
千葉県我孫子市に窯を築いて、ちょうど100周年にあたります。
リーチは、島根県出雲地方を頻繁に訪れました。
雑誌「ひととき」で「『リーチ先生』が愛した出雲」という特集が組まれるほど、日本神話の里は、イギリス人である彼の魂を激しく揺さぶったのです。
イギリス領だった頃の香港に生まれたリーチは、幼い頃、日本に住んだこともありました。
イギリスに戻ってからも日本への憧憬は強く、たびたび来日して、全国の窯元を歩きました。
そして、出雲は彼に陶芸の道を示した場所です。
彼の目に映った宍道湖は、たとえようもなく美しく、いくつもの作品のモチーフになりました。
彼は窯元で土に向き合う陶芸家に、流暢な日本語で、こんなふうに説いたと言います。
「いいですか、天狗になってはいけません。うまくいったからといって、それはあなたの手柄じゃあ、ないんです。全部、自分以外の誰かのおかげ。他のひとのおかげ、土のおかげ。みんな、おかげさまなんです」。
かつて、日本人の多くが口にした言葉、「おかげさまで」。
それは世界中探してもどこにも見当たらない素敵な言葉だと、リーチは思いました。
万物と寄り添う心。異文化と混じり合う優しさ。
目の前に戦争があった時代に、東洋と西洋の交流を心から臨んだ芸術家、バーナード・リーチ。
彼は、美術品としての陶器より、日用品としての陶器を重んじました。
器は、使われてこそ味が出る。
コーヒーカップを口にあてたときに「唇が喜んでいるか」を大切にしたと言われています。
陶芸を通して東と西の融合を目指した芸術家、バーナード・リーチが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
世界的な陶芸家、バーナード・リーチは、1887年イギリス領の香港で生まれた。
母は出産で命を落とす。
この事実は、リーチの生涯に暗い影を落とし続けることになる。
「僕が産まれなければ、お母さんは死なずにすんだ。お母さん、ごめんなさい。生まれてごめんなさい」。
望まれて生まれて来るはずの赤ん坊。
でも、誕生日は永遠に母の命日だった。
父はオックスフォード大学を出た秀才。香港で弁護士をしていた。
忙しい。とても子どもの面倒などみることはできない。
リーチは、日本で英語教師をしている母方の祖父に預けられた。
冬の京都が、最初の記憶。和室があり、畳があり、床の間があった。
4年後、父が再婚することになり、香港に連れ戻される。
しかしほどなくして父はシンガポールに転勤。
継母とは、うまくいかなかった。
繊細で敏感すぎる我が子に継母はとまどい、リーチもまた、なつかなかった。
彼の心の中にはいつも、亡くなった母だけがいた。
彼が心を許したのは、アイルランド人と中国人の血を受け継ぐ乳母だけだった。
乳母は、異国の昔話をしてくれた。
自分がいったい何人(なにじん)で、どこがふるさとなのか、わからなくなった。
父は教育に熱心で、リーチが10歳になると、イギリスの寄宿学校に入れた。
学校では、いじめられた。
大英帝国の庇護(ひご)のもと、貴族の末裔として何の苦労もなく育ってきた同級生にとって、異国の匂いを漂わす、暗い目をしたリーチは異様に見えたのだろう。
侮蔑的な愛称で呼ばれる。
誰も彼に優しい言葉をかけることはなかった。
追い打ちをかけるように継母から手紙が届く。
「将来のために一生懸命、勉学に励みなさい。くれぐれも、お父様の顔を汚すようなことのなきように。社交的でありなさい。明るく、生きなさい」
リーチにとって憩いの時間は、絵を画いているときと本を読んでいるときだけになった。
この孤独で濃密な時間が、彼の才能を開花させることになる。
我が息子リーチが寄宿学校を卒業したら、政治家か法律家の道を歩ませようと父は思っていた。
しかし、シンガポールからやってきた父に、リーチは言った。
「お父さん、僕はね、絵描きになりたいんだ。美術学校に行かせてください。お願いします」
父は怒った。
「そんな勝手は許さない!おまえは、私と同じようにオックスフォードを出なくちゃいけないんだ」
しかし、ロンドンのスレード美術学校が、ぜひ我が校に来てほしいと言ってきた。
16歳での最年少入学。これには父も驚く。
いつの間にか素晴らしい絵を画くようになっていた我が子を、止めることはできなかった。
美術学校の図書館で、バーナード・リーチは運命的な書物に出会う。
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲の本だった。
ハーンもまた、幼少期に母を亡くし、辛く暗い少年時代を過ごした。
何より二人に共通していたのは、日本への憧れだった。
「ああ、日本に行きたい。もう一度、日本の風土に体と心をゆだねたい」
ハーンの本を読めば読むほど、日本への思いがつのる。
そんなとき、もうひとつの出会いが待っていた。
「ねえ君、君は日本の書物ばかり読んでいるようだけど、好きなのかい?日本が」
リーチに話しかけてきた青年こそ、のちの偉大な彫刻家、高村光太郎だった。
留学していた高村光太郎は、この日本好きのイギリス人を面白がった。
当時、大英帝国といえば、沈まぬ国。
極東の小国・日本など、下に見るのが常だった。
でも、バーナード・リーチは違った。
母を知らぬ彼は、父性ではなく母性を求めた。
奪い、統治する西欧の父性文化ではなく、優しく万物を包み込む母性に根差した芸術を愛した。
高村光太郎は、いくつも紹介状を書いた。
「日本にいったら、このひとたちに会えばいい。きっと力になってくれるはずだ」
言葉どおり、日本に行くとあったかく迎えてもらった。
リーチが謙虚で物静かだったのもよかったのだろう。
どの街にいっても、「リーチ先生!」と慕われた。
リーチは思った。
「こんな素敵な出会いを用意してくれたのは、亡くなったお母さんではないだろうか。おまえを抱くことができなくてごめんねとあやまる、お母さんの優しさではないだろうか」
特に柳宗悦・武者小路実篤・志賀直哉たち、白樺派の面々との出会いは、リーチに新しい世界を見せてくれた。
日本に窯を築き、バーナード・リーチは思った。
「僕は幼い頃、西欧と東洋、二つの文化に親しんだ。そんな僕だからこそ、西と東の架け橋になりたい。それがお世話になったひとたちへの、恩返しだと思うから。今、僕が陶器を作れているのは、出会ったひとたち、みんなのおかげ。そして…そして…僕を産んでくれた、お母さんのおかげ」。
【ON AIR LIST】
One Day At A Time / Sam Smith
The Cave / Mumford & Sons
道程 / タテタカコ
僕が一番欲しかったもの / 槇原敬之
閉じる