第三百四十一話己に還る
志賀直哉(しが・なおや)。
『和解』、『城の崎にて』、『暗夜行路』など、研ぎ澄まされた文体と、人間の心を深くえぐる文章は、多くの作家に影響を与え、「小説の神様」と呼ばれています。
没後50年を迎えた昨年、彼の小説『流行感冒』がドラマ化されました。
今からおよそ100年前に流行ったスペイン風邪。
その猛威に翻弄される人々を描いたこの作品は、コロナ禍と類似点が多く、主人公の小説家が我が娘を感染から守る姿が、哀しく、あるときは滑稽に描写されています。
正体がわからぬ感染症に、過度に敏感になるひと、ルールを守らぬひと、それを徹底的に攻撃するひと、どうせいつかは死ぬのだからと楽観的になるひと。
有事に遭遇した人間の業を、冷徹ともいえる筆致で紡いでいくのです。
志賀は2歳のとき、父の仕事の関係で石巻を離れ、東京・麹町に転居しました。
宮城の記憶はないと語っていますが、実は、幼い頃見た原風景が、彼の作品の根幹にあると論じる評論家も多くいます。
北上川の岸辺で見た風景は、深く志賀の心に刻まれ、のちに彼が引っ越した先には、その光景に似た場所が広がっていたのではないか。
たとえば『暗夜行路』に描かれる広島・尾道の景色。
高台から見下ろす瀬戸内海は、どこか、日和山から見える景色に似ているのです。
『暗夜行路』は、志賀直哉の唯一の長編小説。
何度も執筆を中断し、完成するまでに、実に26年の月日を費やしました。
迷い、悩み、書けなくなったとき、彼をふるいたたせた原風景が、母におんぶされて見た石巻の風景だったのかもしれません。
苦しめば苦しむほど、己の原点を知る。
小説家のみならず、人間とは、いつも自分に還っていくものだと彼は語っています。
明治、大正、昭和と激動の時代を生き抜いた小説家・志賀直哉が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
白樺派の巨匠・小説家の志賀直哉は、1883年2月20日、現在の宮城県石巻市に生まれた。
祖父は、二宮尊徳の弟子。
現在の福島県相馬市の名家、相馬家の立て直しや、足尾銅山経営に関わる実業家として名を成した。
父は銀行に勤めるサラリーマン、母は相馬家の家臣の娘だった。
直哉の兄が幼くして亡くなったことが、直哉の人生を変える。
祖父は、志賀家の血が絶えてしまうことを何より恐れていた。
これ以上、息子夫婦に任せていたら、直哉まで死んでしまう。
結局、直哉は、物心つく頃、祖父母に預けられる。
直哉にとって、父との思い出はろくなものがなかった。
ちゃぶ台の上の食器をたたき割る、かんしゃくもち。
家族は、気難しい父の顔色を見ることに終始していた。
でも、父と直哉の境遇は、よく似ていた。
父もまた、幼くして親戚に預けられて育つ。
息子とどんなふうに接したらいいか、学ぶ時間はなかった。
幼い頃芽生えた父への不信感、嫌悪感は、直哉が成人して決定的なものになる。
奇しくも、彼が最も嫌っていた父が、小説家の原点になった。
志賀直哉が12歳のとき、母が亡くなる。
百ヶ日が過ぎるのを待たず、父は再婚。
直哉と11歳しか違わぬ、美しい後妻を迎えた。
新しい母に恨みはないが、実の母が不憫で仕方ない。
父を憎んだ。
母の面影を探し、思い出に浸りたいと思ったが、残念ながら、記憶の底に母の残像は少ない。
「もっと母との時間をつくっておけばよかった。もっと母と話せばよかった…でももう、取り返しはつかない。世の中には、あるんだ、二度と手に入れることができないものが」
父は銀行を辞め、事業を起こし、経済界で頭角を現す。
40歳にして、実業家として大成功をおさめ、政界に乗り出した。
金、金、金。
お金儲けに邁進する父を、直哉は心底軽蔑した。
学習院中等部に進むと、友人と同人誌をつくり、和歌を詠む。
ひたすら本を読み、詩作にふける。
その時間だけが、現実を忘れ、父への恨みからも解放された。
友人に誘われ、内村鑑三の講習会に参加する。
キリスト教に基づく痛烈な文明批判、社会批判に、体が震えるほど感銘を受けた。
「大切なのは、己を鑑みることです。拡大すること、増やすことで、ひとは幸せにはなれない」
内村がひときわ声を荒げて語る事件に、足尾鉱毒反対運動があった。
直哉は、すぐさま友人と足尾銅山への視察ツアーを企画する。
それに対し、父が猛反対した。
祖父がかかわった足尾銅山。
志賀家の汚名を拡散するような行為は、許されなかった。
志賀直哉と父の確執は、これで決定的なものになった。
志賀直哉は、学習院高等科の頃から小説を書くようになった。
東京帝国大学に入ると、たったひとつだけ面白い講義に出会う。
それが、夏目漱石の英語の授業だった。
漱石を慕い、門下生に志願。
漱石もまた、早くから志賀のたぐいまれな描写力を見抜く。
志賀は、小説家になりたい。
そんな決意を父に話した。
猛反対を受ける。
「志賀家では、代々、富をつくり財をなし、次の世代へつなぐ。
次の世代もまた、その財をさらに大きくして、次に渡す。
それが男子の本懐だ。
小説家なんぞは、財をくいつぶすだけだ。実業家になれ!」
志賀は、家を出ることにした。
以来、転々と住居を変える。まるで、心の中の原風景を探すように。
小説家になった志賀直哉は、順調に作品を発表できたわけではない。
何度も何度も書けなくなる。
そのたびに引っ越しをして、悶々とした日々を過ごす。
ふと、志賀は気づく。
友人にかんしゃくを起こし、絶交されてしまう自分。
気難しく、神経質な性格。
すべて、大嫌いな父に似ていた。
父から逃げ回っているようで、実は自分から逃げていたのかもしれない。
義理の母のはからいで、父との溝を埋め、『和解』という作品を発表。
あらゆるものが、己の中にあることを知る。
そうして、記憶がないはずの石巻の光景が頭に浮かぶ。
母におんぶされて見た、河の向こうに拡がる海。
己の原点を知ったとき、志賀直哉は、文豪への道を着実に歩いた。
【ON AIR LIST】
もういいよ / スガシカオ
暗夜行路 / 東京スカパラダイスオーケストラ
I DO / Lady Wray
BACK TO YOU / Bryan Adams
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