第九話留まり続けるということ
その中に、威厳を放ち、姿を留めているのが、旧朝吹山荘の『睡鳩荘(すいきゅうそう)』。
こげ茶色の木の質感。三角の屋根と白い窓が、上品で優しい風合いを奏でています。
湖面にゆらゆらと揺れるその雄姿。
三井財閥のひとりで、のちに三越の社長も務めた朝吹常吉氏の別荘として建てられ、ボーボワールやサガンの翻訳家として有名な朝吹登水子さんが長く住んだ家。
移築され、この場所にありますが、今もその温かみのあるたたずまいは、訪れる人を癒しています。
この別荘を設計したのが、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。
建築家にして実業家、そしてキリスト教の伝道者。
彼は、軽井沢に数多くの建築物を残しました。
ヴォーリズが、残したものとは?そして、彼が今こそ、我々にささやく、yesとは?
ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1880年、アメリカのカンザス州レブンワースに生まれた。
広い空と、吹き抜ける風。そして、木々のぬくもり。
ふるさとを愛した。幼児洗礼を受ける。教会が好きだった。
ひとびとが集い、語らい、高い天井に日常が昇華されていく。
いつかこんなふうに、ひとびとの笑い声が響く建物をつくりたい。
建築家になりたい。夢ではなく目標として定めた。
マサチューセッツ工科大学への入学が許されるほど、優秀だった。
でも、経済的な理由で断念。コロラドカレッジに入学した。
建築家になることを疑わなかったが、ひとつの出会いが、彼、ヴォーリズを変える。
外国伝道を行っていたキリスト教宣教師の、ハワード・テイラーの講演を聞いて感動した。
世界にキリスト教を伝道すること。
その意義や素晴らしさに心が踊った。
1905年、日本に渡った。ヴォーリズ、24歳。
今から110年前のことだった。
建築家にして、実業家、そしてキリスト教伝道者だった、ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、日本の地に降り立ち、ひとつだけ、決めたことがあった。
何があってもこの地に留まるということ。
留まり続けなければ、何も達成できない。
人生でいちばん大切なのは、誰かに必要とされること。
この地に骨を埋める覚悟がなければ、自分の言葉が虚しく消える。
知り合いなどいない。言葉も通じない。
でも、どんなに苦しい道でも、彼は踏みとどまった。
太平洋戦争が勃発。忍び寄る戦禍。
多くの外国人が母国に帰っていった。
宣教師たちが集うクラブハウスでも、その話題で持ちきりになった。強い風が建物を揺らす。
「開戦は、必至だ。ヴォーリズ、ここはみんな帰ったほうがいい」
ある外国人が言った。
ヴォーリズは、四角い窓から激しくしなる木々の枝を見ていた。
「いや、私は、ここを動かない」
その声は、静かだったけれど、強い響きを放った。
「私は、動かない」
やがて彼は、日本人の女性、一柳満喜子と結婚。
帰化することを決断する。
日本名、一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)。
アメリカの米、来るに、留まるでメレル。
アメリカからこの地に来て、留まりつづける。
彼の強い意志が、名前に見える。
大地はつながっている。どこにいても、その場所を愛せないひとはどこへいっても、孤独だ。
まずは、自分が立っている場所を愛するということ。
留まり続け、愛し続けるということ。
来日した、1905年、明治38年の夏から、ヴォーリズは、軽井沢を訪れた。そこには宣教師たちのコミュニティーがあり、何より、大好きな木のぬくもりがあった。
小道を通り過ぎる風はどこか懐かしく、心おどった。
軽井沢には、ヴォーリズが手がけた、さまざまな建築物がある。
ユニオンチャーチ。華やかさはない。
でも、優しく、使い勝手のいい空間がそこにある。
床や壁に使われた木材は、あえて磨かず、本来の質感を大事にした。
そこに集う人にとって居心地のいい環境を、常に考えた。
個人の家も、教会も、テニスコートのクラブハウスも、同じコンセプトだった。
かつて幼い頃見た教会のように、笑顔や癒しを享受できる空間。
留まり続けたからこそ、ヴォーリズには見えた。
歯をくいしばって、今自分が立っている大地を愛したからこそ、わかった。
この風、この空、この陽射し。全てが己をつくり、守っている。
あわてて動くことはない。焦って走ることはない。
人生には、留まることでしかわからない真髄が、ある。
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