第二百九十六話悔いのない人生を選ぶ
田中一村(たなか・いっそん)。
亜熱帯の植物や鳥、ナイーフ派の作風は、アンリ・ルソーにも似て、独自の世界を構築しています。
一村の人気は留まることがなく、今年、京都の美術館「えき」KYOTOにて、「田中一村展 奄美へとつづく道」という展覧会も開催される予定です。
その展覧会で謳われたとおり、彼は失意の中、単身50歳になってから奄美大島に渡りました。
そこで出会う、南国の景色や風、果物や野菜、植物・動物に心惹かれ、絵のモチーフにしたことで、「日本のゴーギャン」と言われるようになりました。
一村は、幼い頃に神童と言われ、絵の才能もずば抜けていましたが、なぜか絵画展には、ことごとく落選しました。
めげずに何度応募しても、また落選。
結局、中央画壇に入ることはできませんでした。
絵も売れず、家を追われ、貧困のどん底に突き落とされても、絵を画くことを続けました。
彼は晩年、かつて居候させてもらった医師に、奄美からこんなハガキを書きました。
「三か年もの間オカネの心配もなく何にも掣肘(せいちゅう)されず、絵の研究ができるなんて、私の生涯に未だ嘗つて(いまだかつて)無かったことです。運命の神のこの大きな恵に感謝して居ます。
これが私の絵の最終かと思われますが、悔いはありません。
旅行して視察写生して画室に帰って描くのに比すれば、材題の中で生活して居ることは実に幸福です」
一村が、奄美で画いた最高傑作のひとつ『不喰芋と蘇鐵』。
世間一般に認められない自分を、クワズイモになぞらえたのでしょうか。
この絵は決して売りたくないと、周囲に話したと言います。
どんな境遇にあっても、悔いのない人生を送りたい。
そう願った伝説の画家・田中一村が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
伝説の画家、ナイーフ派の巨匠、田中一村は、1908年7月22日、栃木県下都賀郡栃木町、現在の栃木市に生まれた。
父は、彫刻家。
一村が5歳の春、一家は栃木から東京麹町に居を移す。
父がさらに己の芸術を極めるべく、あらたな師匠に教えを乞うためだった。
父の傍らで、幼い一村が、当時流行りの南画を見様見真似で画く。
それを見た父は、驚愕した。
見事だった。
輪郭線を書かずに、墨を重ねる手法。
教えたわけではないのに、体得していた。
一瞬にして、我が子が自分を越える存在になることを確信する。
一村は7歳にして、完成の域に達した。
10歳のときに、扇子に画いた絵が残っている。
水草のそばを、三尾の小さな魚が泳ぐ様を画いた。
扇子の曲線を生かし、魚たちは、実に楽し気にゆらゆらと泳いでいる。
配置、筆使い、ともに老成の感があった。
18歳で、東京美術学校、現在の東京芸術大学日本画科に入学。
同期に、東山魁夷がいた。
南画の天才。
誰にも負けないという自負があった。
しかし、大学に入るとすでに、南画の時代は終わろうとしていた。
さらに、父が病に倒れ、学費もままならない。
わずか2か月で、退学。
行き場を失い、ただ家族を養うためだけに、手慣れた南画を書き続けた。
虚しかった。
自分がどこへ行こうとしているのか、わからなかった。
『アダン』というタイトルで、その生涯が映画化された異端の画家・田中一村は、気づいていた。
いつかは、南画に決別しなくてはならない。
美術学校の同級生たちは、西洋絵画を学び、独自の作風を生み出していた。
ただ食べていくためだけに、南画にすがる自分。
23歳のとき、ついに自らの行くべき道を自覚し、全く新しい世界の扉を開く。
その記念すべき一作は、『水辺にめだかと枯蓮と蕗の薹』。
目の前にある自然、それをスケッチし、見たままのものを、キャンバスに留めようとした。
自信をもって、自分を支援してくれるひとたちに見せる。
反応は、さんざんだった。誰一人として認めてくれない。
失意と落胆の中、周囲のもの全員と絶縁した。
「わかってくれないならいい。でも、僕は自分の信じた道を行く」
アルバイトをしながら、なんとか食いつなぐ。
もう南画は画かない。
誰かのためではなく、自分のために絵を画く。
そう決めた。
千葉に移り住み、スケッチする。
牛をひく農夫や、季節の移ろい、植物や鳥を画く。
スケッチすることで、自然と対話し、客観的に描くことを心がけた。
東山魁夷に遅れること20年近く、39歳にしてようやく、ある絵画展に入選するが、そこから落選の日々が始まった。
独自の画風を貫いた画家・田中一村は、35歳のとき、絵だけではどうしても食べて行けず、板金工になる。
慣れない仕事。
体を壊し、喀血。
それでも、売れる絵を画こうとはせず、自分が画きたい絵だけを画いた。
相変わらず、中央画壇からは認められない。
孤独と貧窮。
痩せ細り、体力が落ちても、心は澄んでいた。
スケッチは、まるで写経のように増えていく。
南画で培った主観的な画風を変えたい。
自然を客観的に、ありのままに描けてこそ、自分の世界に辿り着ける、そう信じた。
50歳で、奄美に渡る。
パリを捨てタヒチに向かったゴーギャンのように、一村は、全てを捨て、南国の島を終の棲家とした。
日本画にはそぐわないとされた極彩色の風景。
心が躍る。
「これだ! これが画きたい!
赤はどこまでも赤で、黄色は誰にも負けないくらい黄色。
これでいいんだ。
全ての主張が強くても、ちゃんと調和を保っている。
自然は、すごい。
みんな悔いのない人生をおくっているように思える…」
田中一村は、何度落選しても画くことをやめなかった。
画くことで稼ぐこともせず、弱い体に鞭打って肉体労働で生活した。
悔いのない人生。
絵に憑りつかれた男は、絵を画くことでしか、幸福を得ることはできない。
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花 / 中孝介
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